2008年03月12日
シーピーセンター鈴木さん 第二回
〜知恵で勝負!
誰も目をつけていないものに目をつける・・・
仕事が楽しくて仕方なかったよ。〜

素早い対応ですね
成長するときだからこその、大変さもあったんでしょうか?
現状を受けて、今後の事業展開をどうするといったことは、もうご計画中ですか?

先を見て、目標を掲げているんですね
そういった喜びを知っているからこその、気持ちですね。
生きていくための力ですね。
お金になることは、誰かがマネしだすんですねー。
それから、どうされたんですか?

目のつけどころがいいですね!
大当たり!ですね!
今の奥さんおきれいですよね。
誰も目をつけていないものに目をつける・・・
仕事が楽しくて仕方なかったよ。〜

リース会社から事務機器などを引き取ってくる仕事は、鈴木社長が考え出したビジネスモデルと聞きましたが、今では普通になっていることでも、最初に考えついて取り組んだというのはすごいですね。
個人で創業した当初(平成7年)、パソコン集めるというのは、環境問題じゃなかった。
集めること自体が仕事。
パソコンの新品がまだ100万円くらいしたときだから、パソコンは回収すると商品になった。
1998年の産業廃棄物処理法ができて、それをきっかけに環境問題につながっていった。
それまで、ぼくが回収してきたものの大半は、スクラップの材料問屋へ持っていってたけれど、
環境問題がでてきて、リサイクルの提案を企業にするようになった。
集めること自体が仕事。
パソコンの新品がまだ100万円くらいしたときだから、パソコンは回収すると商品になった。
1998年の産業廃棄物処理法ができて、それをきっかけに環境問題につながっていった。
それまで、ぼくが回収してきたものの大半は、スクラップの材料問屋へ持っていってたけれど、
環境問題がでてきて、リサイクルの提案を企業にするようになった。
素早い対応ですね
そう、経営者は計画だけではダメ。実行力が大切。
産廃を産廃にしない。そうこするうちに、ISOという国際基準がでてきて、人の意識がより環境へ向いた。
僕の事業は、産廃から環境、情報処理へ向かった。
産廃を産廃にしない。そうこするうちに、ISOという国際基準がでてきて、人の意識がより環境へ向いた。
僕の事業は、産廃から環境、情報処理へ向かった。
成長するときだからこその、大変さもあったんでしょうか?
そうだね。どんな商売も、積み上げだよね。
伸びていけばコストが下がってよくなるけど、経営ってものは大変だね。
設備投資をして、人が増えればその分大変になる。
個人からはじめて、今10年目。
年30パーセントくらい成長しているけど、えらい。きつい。厳しい。
伸ばせば伸ばすほど、きついね。
経営は苦労。でも、いろいろ乗り越えてがんばっていかないとね。
10億の投資を決めたときは、売上2億7千万円で、
いいところへ持っていくまでには、12億円〜15億円の売上にしないといけない。
新社屋、物流の車両、社屋の中の機械・設備、関東の450坪の倉庫・営業所、
関西の150坪の倉庫・営業所、水の自販機新規事業(多角化)
夢と目的・・・8割は達成しているかな。でも燃料の高騰化などの社会事情で2割が打撃を受けている。
打撃を受けやすい業種なんだよね。
伸びていけばコストが下がってよくなるけど、経営ってものは大変だね。
設備投資をして、人が増えればその分大変になる。
個人からはじめて、今10年目。
年30パーセントくらい成長しているけど、えらい。きつい。厳しい。
伸ばせば伸ばすほど、きついね。
経営は苦労。でも、いろいろ乗り越えてがんばっていかないとね。
10億の投資を決めたときは、売上2億7千万円で、
いいところへ持っていくまでには、12億円〜15億円の売上にしないといけない。
新社屋、物流の車両、社屋の中の機械・設備、関東の450坪の倉庫・営業所、
関西の150坪の倉庫・営業所、水の自販機新規事業(多角化)
夢と目的・・・8割は達成しているかな。でも燃料の高騰化などの社会事情で2割が打撃を受けている。
打撃を受けやすい業種なんだよね。
現状を受けて、今後の事業展開をどうするといったことは、もうご計画中ですか?

関東・中部・関西に拠点がかまえてあるので、それをどういかして会社をつくっていくか。
九州や東北にもでていきたい。タイ・シンガポールなど東南アジアにもでていきたい。
同じ事業で、海外でも、コンピューターの技術が進んでいて、データの管理・処理をちゃんとしようと提案できたら・・・
うちのビジネスモデルが海外でも通用すると思う。
九州や東北にもでていきたい。タイ・シンガポールなど東南アジアにもでていきたい。
同じ事業で、海外でも、コンピューターの技術が進んでいて、データの管理・処理をちゃんとしようと提案できたら・・・
うちのビジネスモデルが海外でも通用すると思う。
先を見て、目標を掲げているんですね
夢は高くもたなきゃ。ハードルは高く。
低いとコストを超えることすらできない。
高すぎても超えられない。(笑)
けど、これを超えるために何をしなきゃならないか・・・
自分たちがかかげた売り上げ目標の達成。
たくさん労働しなきゃならないつらさはあるが、しゃにむに働いて、達成したときの喜び、報酬を、若い子たちに味わわせたい。
低いとコストを超えることすらできない。
高すぎても超えられない。(笑)
けど、これを超えるために何をしなきゃならないか・・・
自分たちがかかげた売り上げ目標の達成。
たくさん労働しなきゃならないつらさはあるが、しゃにむに働いて、達成したときの喜び、報酬を、若い子たちに味わわせたい。
そういった喜びを知っているからこその、気持ちですね。
創業前は、ある運送会社の役員だった。
バブルがはじけて、運転手のリストラをやることになった。
それを2年かけてやり終わったら、オイルショックで僕もリストラ。
子どもがみんな大学へ行ってたから、食っていけなかった。
40過ぎのお父さんを雇ってくれるとこはないし、学歴もない。学歴はないけど知恵がある!
バブルがはじけて、運転手のリストラをやることになった。
それを2年かけてやり終わったら、オイルショックで僕もリストラ。
子どもがみんな大学へ行ってたから、食っていけなかった。
40過ぎのお父さんを雇ってくれるとこはないし、学歴もない。学歴はないけど知恵がある!
生きていくための力ですね。
自分で何かやるしかないということで、始めた。
たまたま運送やってるときに、スクラップ運んでいて、これはお金になるんだろうなと思ったから、“よし、粗大ゴミを運んでお金にしよう”と。でも、娘が、豊田で拾うのははずかしいと言うので、名古屋まで拾いに行った。
冷蔵庫・エアコン・テレビ・・・を集めてきた。
日本で使わなくなったものでも、海外へ持っていくと、十分使えるものだから、台湾や中国の人とやりとりして、冷蔵庫5000円、エアコン7000円とか、お金になった。
一生懸命トラックで集めに行ったね。でも、いいことは長くは続かないんだよ。
それを見ていてマネする人が出てきた。
たまたま運送やってるときに、スクラップ運んでいて、これはお金になるんだろうなと思ったから、“よし、粗大ゴミを運んでお金にしよう”と。でも、娘が、豊田で拾うのははずかしいと言うので、名古屋まで拾いに行った。
冷蔵庫・エアコン・テレビ・・・を集めてきた。
日本で使わなくなったものでも、海外へ持っていくと、十分使えるものだから、台湾や中国の人とやりとりして、冷蔵庫5000円、エアコン7000円とか、お金になった。
一生懸命トラックで集めに行ったね。でも、いいことは長くは続かないんだよ。
それを見ていてマネする人が出てきた。
お金になることは、誰かがマネしだすんですねー。
そう、粗大ゴミを拾って運ぶ、という市場にライバルが出てきた。
それまでは、朝の5時くらいに行けば、たくさんあったのに、ライバルの登場で、朝5時に行ってもなんにもない。
僕は商売としてやろうとしていたけど、ホームレスがやりだした。商品がなくなる・・・
さらにその頃、リサイクルショップがブームになってきた。
新品は、メーカーへ行って仕入れれば同じものが手に入るけど、リサイクルショップはそうはいかない。
夜中の1時に拾いにいかないと、ない。そんな時間に拾ってると、泥棒みたいだよね。(笑)
“この事業も、2年くらいで終わりだな”と思ったね。
それまでは、朝の5時くらいに行けば、たくさんあったのに、ライバルの登場で、朝5時に行ってもなんにもない。
僕は商売としてやろうとしていたけど、ホームレスがやりだした。商品がなくなる・・・
さらにその頃、リサイクルショップがブームになってきた。
新品は、メーカーへ行って仕入れれば同じものが手に入るけど、リサイクルショップはそうはいかない。
夜中の1時に拾いにいかないと、ない。そんな時間に拾ってると、泥棒みたいだよね。(笑)
“この事業も、2年くらいで終わりだな”と思ったね。
それから、どうされたんですか?
今度は、いろんな家電ショップに、「いらないものないですか?」と聞きに行くようになった。
家電ショップには、一般家庭から引き取ってくるものがある。
みんな、処分屋さんにお金払って引き取ってもらっていたので、僕が行くと、
「タダで持っていってくれるなら、あげるよ」と。
電気屋さんを3件回るとトラックいっぱいになった。
ひとりでやってる分には、お金になったね。
だけど、これを企業としてやっていくにはどうしたらいいか、と考えたとき、たまたま東京でパソコンの回収をしている若者に会った。彼は「今はパソコンの中古を集めるときだよ。」って言っていたね。
そのとき僕45才。
パソコン回収の若者は、一人で、売上2億〜3億あげていた。
パソコンの新品がまだ100万円くらいしたときだから、回収して40〜50万円で売れる。
リース会社で2000円とか3000円で売ってもらうわけなので、大変儲かる。
まだパソコンが一般化していない時代だからね。
ハードディスクのないコンピューターの頃。
そういうものがお金に換わることはわかった。
どういう流れを作ったら、ビジネスモデルになるか、と考えた。
回収したパソコンは、どこでどうやって使われるのか・・・
企業だよね。それもパソコンが2〜3台ある100人くらいの会社。
そういうところへパソコンを回収にいく仕事をしよう、と。
最大手のリース会社、ダイヤモンドリースさんや住友リースさんに提案書を持って話に行ったのが、12年くらい前。
「あんたおもしろいこと考えるね」と言われた。
まだ、誰も気づかない、やっていないことだったから。今は、ライバルいっぱい。
家電ショップには、一般家庭から引き取ってくるものがある。
みんな、処分屋さんにお金払って引き取ってもらっていたので、僕が行くと、
「タダで持っていってくれるなら、あげるよ」と。
電気屋さんを3件回るとトラックいっぱいになった。
ひとりでやってる分には、お金になったね。
だけど、これを企業としてやっていくにはどうしたらいいか、と考えたとき、たまたま東京でパソコンの回収をしている若者に会った。彼は「今はパソコンの中古を集めるときだよ。」って言っていたね。
そのとき僕45才。
パソコン回収の若者は、一人で、売上2億〜3億あげていた。
パソコンの新品がまだ100万円くらいしたときだから、回収して40〜50万円で売れる。
リース会社で2000円とか3000円で売ってもらうわけなので、大変儲かる。
まだパソコンが一般化していない時代だからね。
ハードディスクのないコンピューターの頃。
そういうものがお金に換わることはわかった。
どういう流れを作ったら、ビジネスモデルになるか、と考えた。
回収したパソコンは、どこでどうやって使われるのか・・・
企業だよね。それもパソコンが2〜3台ある100人くらいの会社。
そういうところへパソコンを回収にいく仕事をしよう、と。
最大手のリース会社、ダイヤモンドリースさんや住友リースさんに提案書を持って話に行ったのが、12年くらい前。
「あんたおもしろいこと考えるね」と言われた。
まだ、誰も気づかない、やっていないことだったから。今は、ライバルいっぱい。

目のつけどころがいいですね!
誰も目をつけていないところに目をつけ、事業を始める・・・仕事がおもしろかったー。
創業当初は3人。
パソコン集めに、北海道や九州へ行って車の中で寝る。
その頃は、トラックの中で野宿してたね。
リース会社がお客様で、所有者はリース会社で、使用者が全国に広がってる。
「全日空さんのものをひきとって」は「日本中の空港に置いてあるけどいい?」ってことだよね。
トヨタレンタリースも日本中。
仕事としては、ハードだけど、会社の用事で全国へ行けるから楽しい。
外へ出て行くことが好きな人は、楽しいと思うよ。(笑)
トラックの仕事と違って、時間にゆとりがあった。
「これがいくらになる」という計算もできた。
たとえば、九州の鹿児島空港の日本航空さんに、パソコンが10台あるという連絡が入る・・・
リース会社から2000円、売るのは5万円。10台で50万円になるわけ。
飛行機で行って、レンタカーで回収して、温泉入って帰ってきても、十分採算がとれた。
今はそういうわけにいかないけど、当時はライバルがいなくて優雅だった。
始めたばかりのときは、楽しかったー。(笑)
今は、パソコンの価値が、10分の1から15分の1しかないから、大変だね。
創業当初は3人。
パソコン集めに、北海道や九州へ行って車の中で寝る。
その頃は、トラックの中で野宿してたね。
リース会社がお客様で、所有者はリース会社で、使用者が全国に広がってる。
「全日空さんのものをひきとって」は「日本中の空港に置いてあるけどいい?」ってことだよね。
トヨタレンタリースも日本中。
仕事としては、ハードだけど、会社の用事で全国へ行けるから楽しい。
外へ出て行くことが好きな人は、楽しいと思うよ。(笑)
トラックの仕事と違って、時間にゆとりがあった。
「これがいくらになる」という計算もできた。
たとえば、九州の鹿児島空港の日本航空さんに、パソコンが10台あるという連絡が入る・・・
リース会社から2000円、売るのは5万円。10台で50万円になるわけ。
飛行機で行って、レンタカーで回収して、温泉入って帰ってきても、十分採算がとれた。
今はそういうわけにいかないけど、当時はライバルがいなくて優雅だった。
始めたばかりのときは、楽しかったー。(笑)
今は、パソコンの価値が、10分の1から15分の1しかないから、大変だね。
大当たり!ですね!
それでも、いつもいいストレートが出るとは限らない。
いつもヒットが出るとは限らない。
野球で言うと、ちょうど今中盤。
5回の裏あたりで、厳しいところだね。
恋愛でも中盤が難しいでしょ。(笑)
ゴールが見えない中盤は、モヤモヤしていて。
結婚に行くまで、長い期間恋愛していたら、結婚に至らない。
案外、終わりも早い。
考えるまでいかない。僕なんか、一気に決めちゃう。
結果よければ、よし、っていう感じで(笑)。
いつもヒットが出るとは限らない。
野球で言うと、ちょうど今中盤。
5回の裏あたりで、厳しいところだね。
恋愛でも中盤が難しいでしょ。(笑)
ゴールが見えない中盤は、モヤモヤしていて。
結婚に行くまで、長い期間恋愛していたら、結婚に至らない。
案外、終わりも早い。
考えるまでいかない。僕なんか、一気に決めちゃう。
結果よければ、よし、っていう感じで(笑)。
今の奥さんおきれいですよね。
きれいっていうより、賢いよ。
だんなを手のひらで転がしてる。(笑)
うまいことネジまいて、うまいこと外へ出て行くようにしてる。
家庭の中の整え方が、とてもうまい。
うまいよなあと、思う。すごいなあと、思う。
それを世の中の女性がやったら、
男の子なんかみんな一生懸命がんばっちゃう(笑)。
だんなを手のひらで転がしてる。(笑)
うまいことネジまいて、うまいこと外へ出て行くようにしてる。
家庭の中の整え方が、とてもうまい。
うまいよなあと、思う。すごいなあと、思う。
それを世の中の女性がやったら、
男の子なんかみんな一生懸命がんばっちゃう(笑)。
次回に続きます!!
2008年03月19日
シーピーセンター鈴木さん 最終回
〜九死に一生を何回も。
僕の人生はほんとに生かされてる人生。〜

そんな奥様の支えも大きいですね。
好きですけど、弱くてすぐ酔っ払って楽しくなっちゃうので控えめに・・・
鈴木社長は飲めそうな感じですね〜。

大丈夫だったんですか?
怖いですねー。
習うより慣れろですね。自分で仕事を吸収していくのが「あたりまえ」なんですよね。

ここでちょっと、鈴木社長の人生を年を追って教えて下さい。
ほんとうに、いろいろな経験とご苦労もされているんですね
ところで・・・額のキズあとは、どうされたんですか?
まったくなんともない?!
強運ですね

高い授業料でしたね
体がいくつあっても足らないですね(笑)
(笑)

■今回のインタビュー会場
〜壺中庵〜
豊田市小坂本町1-4-4 アーバンセンセーション1F
Tel / 0565-33-3065
営業時間 /11:00~14:30(o.s.14:00)17:00 〜 22:30(o.s.21:30)
毎日営業しております。
僕の人生はほんとに生かされてる人生。〜

女房は、急にどっか行くよ、というのがダメ。前もって言わないと、とね。
で、前もって言うと、そのドライブの日は、朝4時とか5時に起きて、何か準備したりね。
計画的にぴしっぴしっとやらないと気がすまない性格なんだね。
僕とは正反対(笑)。
女房は、何事も、パシッとすぐ決める。
だから僕にとってとてもありがたい存在。
ほんとに、あの性格が僕と入れ替わっていたら、女房の方が、3倍も4倍も成功していたに違いないよ。
何事もプランをたて、そのプランに沿って、きちんと進めるからね。
で、前もって言うと、そのドライブの日は、朝4時とか5時に起きて、何か準備したりね。
計画的にぴしっぴしっとやらないと気がすまない性格なんだね。
僕とは正反対(笑)。
女房は、何事も、パシッとすぐ決める。
だから僕にとってとてもありがたい存在。
ほんとに、あの性格が僕と入れ替わっていたら、女房の方が、3倍も4倍も成功していたに違いないよ。
何事もプランをたて、そのプランに沿って、きちんと進めるからね。
そんな奥様の支えも大きいですね。
女房には、「あなたはブレるからいけない」と言われる。
なんでもやりたがるから会社経営に関してもブレることがある。
女房に、「あなたは一人しかいないんだから、あれもこれも一人でやろうとしたらダメじゃない?」と言われた。
「あなたがやったんじゃなくて、やれる人がいたからできたんでしょ」と叱られました。
回収業と運送業はレパートリーだけれど、ベンダー業、リフォーム業は任さないと。
携われないものはやらない方がいいと女房は言うけれど、ベンダー業を一生懸命やっているスタッフがいるから、
応援してがんばっていきたいしね。
ところで井上さん、お酒飲める方?
なんでもやりたがるから会社経営に関してもブレることがある。
女房に、「あなたは一人しかいないんだから、あれもこれも一人でやろうとしたらダメじゃない?」と言われた。
「あなたがやったんじゃなくて、やれる人がいたからできたんでしょ」と叱られました。
回収業と運送業はレパートリーだけれど、ベンダー業、リフォーム業は任さないと。
携われないものはやらない方がいいと女房は言うけれど、ベンダー業を一生懸命やっているスタッフがいるから、
応援してがんばっていきたいしね。
ところで井上さん、お酒飲める方?
好きですけど、弱くてすぐ酔っ払って楽しくなっちゃうので控えめに・・・
鈴木社長は飲めそうな感じですね〜。
半分脳梗塞やりかけて、控えてる。
ほんとに死んじゃうかと思った。
血圧が40くらいまで下がり、体温も32℃なんていう状態になっちゃったんだよ。
仮死状態だよ。
ぐらぐら〜っときて倒れちゃった。
会社初めて3期目に、初めてマイナス。
みんなに檄飛ばして、焼酎3杯、生中3杯、ブランデーをロックで2杯・・・
ゴテンと寝て・・・目が覚めたら手足が動かない!
手足が冷たくなってることがわかった。
今の奥さんと、まだ同居してなかったから、甥っ子呼んで、病院に連れてってもらい、点滴3本打ってもらったらすぐ復活できた。その足で東京出張に行ったね。入院も検査もなしで・・・。
ほんとに死んじゃうかと思った。
血圧が40くらいまで下がり、体温も32℃なんていう状態になっちゃったんだよ。
仮死状態だよ。
ぐらぐら〜っときて倒れちゃった。
会社初めて3期目に、初めてマイナス。
みんなに檄飛ばして、焼酎3杯、生中3杯、ブランデーをロックで2杯・・・
ゴテンと寝て・・・目が覚めたら手足が動かない!
手足が冷たくなってることがわかった。
今の奥さんと、まだ同居してなかったから、甥っ子呼んで、病院に連れてってもらい、点滴3本打ってもらったらすぐ復活できた。その足で東京出張に行ったね。入院も検査もなしで・・・。

大丈夫だったんですか?
「お前はまだまだやることあるぞ」と天から言われてるのかな、と思いました。
創業時は宝くじみたいな仕事が多かった。
5000台、引き取ってもらいたい、とか。パソコン創生期だったから、需要が集まった。
ひとつのビジネスモデルで昔は30年もったね。けれど、今は10年もたない。
会社というものは、3年で6割減る。で、5年で、そのうちの5割減る。
それを越すと、なんとか10年いける。さらに、そこを超えると、20年くらいもつ。
創業時は宝くじみたいな仕事が多かった。
5000台、引き取ってもらいたい、とか。パソコン創生期だったから、需要が集まった。
ひとつのビジネスモデルで昔は30年もったね。けれど、今は10年もたない。
会社というものは、3年で6割減る。で、5年で、そのうちの5割減る。
それを越すと、なんとか10年いける。さらに、そこを超えると、20年くらいもつ。
怖いですねー。
5年、10年たつと、投資をすることになる。
こういうときが、管理や意思疎通が一番難しい。
新社屋を作ったからって、すぐ仕事が入ってくるんじゃない。
経営者は、それをもとに、何かやろうと日々考えるけど、社員さんはなかなかそういう発想にならない。
一緒に夢を見ようという雰囲気にしていくために、経営者はいろいろがんばらないとね。
昔は、奉公で働いたから、「あたりまえ」だったけどね。
寿司屋の小僧で月1回だけの休み。
正月とお盆で2日ずつの休み。
それがあたりまえだったね。
6,000円(今でいう60,000円くらい)の給料だった。
教えてもらうんでなく、周りのやってることを見よう見真似で覚えていった。
ちっちゃい寿司屋で小僧やってたから、裏方のいろんな仕事をなんでもやらせてもらえて、自分でどんどん吸収していったね。
先輩がパチンコに行っちゃって、「お前用意しとけよ」ということが、僕にはうれしかった。
機会をいただけた、と思ったからね。
誰よりも先に、いい仕事ができる人間になれると思ってがんばったね。
こういうときが、管理や意思疎通が一番難しい。
新社屋を作ったからって、すぐ仕事が入ってくるんじゃない。
経営者は、それをもとに、何かやろうと日々考えるけど、社員さんはなかなかそういう発想にならない。
一緒に夢を見ようという雰囲気にしていくために、経営者はいろいろがんばらないとね。
昔は、奉公で働いたから、「あたりまえ」だったけどね。
寿司屋の小僧で月1回だけの休み。
正月とお盆で2日ずつの休み。
それがあたりまえだったね。
6,000円(今でいう60,000円くらい)の給料だった。
教えてもらうんでなく、周りのやってることを見よう見真似で覚えていった。
ちっちゃい寿司屋で小僧やってたから、裏方のいろんな仕事をなんでもやらせてもらえて、自分でどんどん吸収していったね。
先輩がパチンコに行っちゃって、「お前用意しとけよ」ということが、僕にはうれしかった。
機会をいただけた、と思ったからね。
誰よりも先に、いい仕事ができる人間になれると思ってがんばったね。
習うより慣れろですね。自分で仕事を吸収していくのが「あたりまえ」なんですよね。

初任給の6,000円は、親父が呑みに行って終わっちゃった。
親父がその頃無職でのんべえで、つらいことはお酒に逃げる人だった。
たくさんいる妹・弟に、何かしてやれると思ったんだけどね。
親父がその頃無職でのんべえで、つらいことはお酒に逃げる人だった。
たくさんいる妹・弟に、何かしてやれると思ったんだけどね。
ここでちょっと、鈴木社長の人生を年を追って教えて下さい。
昭和27年 8月16日生まれ。
15才で、寿司屋で小僧に入って・・・
自分は長男で下にたくさん弟・妹がいて、父は失業中だっため、高校へ行かずに就職した。
兄妹の中で、高校行ってないのは自分だけ。
お兄ちゃんだから働きなさいね、というわけ。
17才まで寿司屋にいたけど、給料安かったから、妹・弟の生活費や学費を稼ぐために転職。
18才で八百屋に入った。
今みたいに流通がしっかりしていなかったから、ある意味、博打ができた。
その日その日によって相場が変わるでしょ。
いい意味で上手に博打する人に弟子入りできた。
荷物をとったら、その人が相場を支配できた。
今ではあたりまえにいろんな野菜が流通しているけど、
三河で作ってない野菜を流通させるのは、新しいビジネスだったね。
相場をはる人は、荷物を取り寄せる情報網を持っていた。
電話1本で、レタスがトラックいっぱいに到着する。
三河でトマトができないときに、遠方へ行って仕入れてくる、ということをしていた。
情報が流通し始めて、このビジネスは下火になり、トラック運転手に転職した。
15才で、寿司屋で小僧に入って・・・
自分は長男で下にたくさん弟・妹がいて、父は失業中だっため、高校へ行かずに就職した。
兄妹の中で、高校行ってないのは自分だけ。
お兄ちゃんだから働きなさいね、というわけ。
17才まで寿司屋にいたけど、給料安かったから、妹・弟の生活費や学費を稼ぐために転職。
18才で八百屋に入った。
今みたいに流通がしっかりしていなかったから、ある意味、博打ができた。
その日その日によって相場が変わるでしょ。
いい意味で上手に博打する人に弟子入りできた。
荷物をとったら、その人が相場を支配できた。
今ではあたりまえにいろんな野菜が流通しているけど、
三河で作ってない野菜を流通させるのは、新しいビジネスだったね。
相場をはる人は、荷物を取り寄せる情報網を持っていた。
電話1本で、レタスがトラックいっぱいに到着する。
三河でトマトができないときに、遠方へ行って仕入れてくる、ということをしていた。
情報が流通し始めて、このビジネスは下火になり、トラック運転手に転職した。
ほんとうに、いろいろな経験とご苦労もされているんですね
計画は大事。でも、それは絵に描いた餅。
経営者は実行する勢いと努力、時期、その判断が重要。
僕は勢いだけで実行する。
途中で息切れしてしまったりもするけど、それでも勢いで乗り切る(笑)
ところで、焼肉勢はいいわ〜
おいしかったよー。
今度から誰かとちょっと行くときは、勢だなーと思ってる。
もう3回行ったかな。
あそこは、味にムラがない。いい肉そろえてるよ。
年取るとそんなに食べないから、おいしいものを少しでいい。だから、勢がいい。
和食はここ(壺中庵)がいいね。商談や打ち合わせにもいいしね。凝った話のときに、座敷もいいよ。
経営者は実行する勢いと努力、時期、その判断が重要。
僕は勢いだけで実行する。
途中で息切れしてしまったりもするけど、それでも勢いで乗り切る(笑)
ところで、焼肉勢はいいわ〜
おいしかったよー。
今度から誰かとちょっと行くときは、勢だなーと思ってる。
もう3回行ったかな。
あそこは、味にムラがない。いい肉そろえてるよ。
年取るとそんなに食べないから、おいしいものを少しでいい。だから、勢がいい。
和食はここ(壺中庵)がいいね。商談や打ち合わせにもいいしね。凝った話のときに、座敷もいいよ。
ところで・・・額のキズあとは、どうされたんですか?
5つのときに、交通事故にあってね。
昭和32年。
まだほとんど車が通らなかった時代に、豊田で初の交通事故。
おふくろと歩いていて、向こうから走ってくるオートバイにぶつかって、72針の大手術。
フロントフォークのフェンダーがあたって、スパーッと切れた。
半年間意識不明だった。
だから、ほんとに僕の人生、生かされてる人生だと思うよ。
その後、オートバイが大好きで
3回ほど、死に掛けるほどの派手な怪我したもんだけど、
やっぱり死なずに生きている・・・
スーパーカブで、久保町の交差点で正面衝突したことがある。
その時、ぴゅーっと自分の体が飛んでいくのがわかったよ。
「ああ、飛んでるわ」と実感した。
「あの壁にぶつかったらもうおしまいなんだろうな」と
考えるくらい、その飛んでる一瞬が鮮明だった。
「あの壁の前に立てたら、助かるんだけど・・・」とも思った。
そしたら、スタッと立っていた。
まわりはびっくりして救急車呼んでたけど、まったくなんともない。
逆にそれが恥ずかしくて、逃げ帰っちゃった。(笑
昭和32年。
まだほとんど車が通らなかった時代に、豊田で初の交通事故。
おふくろと歩いていて、向こうから走ってくるオートバイにぶつかって、72針の大手術。
フロントフォークのフェンダーがあたって、スパーッと切れた。
半年間意識不明だった。
だから、ほんとに僕の人生、生かされてる人生だと思うよ。
その後、オートバイが大好きで
3回ほど、死に掛けるほどの派手な怪我したもんだけど、
やっぱり死なずに生きている・・・
スーパーカブで、久保町の交差点で正面衝突したことがある。
その時、ぴゅーっと自分の体が飛んでいくのがわかったよ。
「ああ、飛んでるわ」と実感した。
「あの壁にぶつかったらもうおしまいなんだろうな」と
考えるくらい、その飛んでる一瞬が鮮明だった。
「あの壁の前に立てたら、助かるんだけど・・・」とも思った。
そしたら、スタッと立っていた。
まわりはびっくりして救急車呼んでたけど、まったくなんともない。
逆にそれが恥ずかしくて、逃げ帰っちゃった。(笑
まったくなんともない?!
衝突はすごい派手だったので、ほんと、九死に一生とはこのこと。
つくづく、僕の人生、生かされてる人生だよ。
だから僕は、人生どんな苦難があっても勝てると思ってる。
つくづく、僕の人生、生かされてる人生だよ。
だから僕は、人生どんな苦難があっても勝てると思ってる。
強運ですね
最初の会社が、いよいよ倒産してしまうというとき・・・
自殺しようと思って、ガソリンを40リットルつんで、衣浦の埠頭で2泊したんだけどね。
死にきれずに、2泊して目覚めた朝、仙人みたいな人が魚釣ってたの。
その人のひとことで、なんか、今まで自殺をと考えていたのが、急に、どっかいっちゃった。
「お前何考えてんだ。世の中一人で背負ってるみたいな顔しやがって。
大それたこと考えてんなあ。人間なんかさあ、立ったら半畳、寝て1畳もないんだぞ。お前何考えてんだ」
ふっと気づいたら、その人はもう、そこにいなかった。
それで、うちへ電話したら、おふくろが「借金取りが、40人くらいきてるよ!はよ帰ってきて」。
で、借金取りのところへすこすこと帰っていった。
もう帰るときは、「なんとかなるさー」なんて思ってた。
実際、その後借金は返したよ。
1億5,000万。授業料と思って、割り切れるようになった。
自殺しようと思って、ガソリンを40リットルつんで、衣浦の埠頭で2泊したんだけどね。
死にきれずに、2泊して目覚めた朝、仙人みたいな人が魚釣ってたの。
その人のひとことで、なんか、今まで自殺をと考えていたのが、急に、どっかいっちゃった。
「お前何考えてんだ。世の中一人で背負ってるみたいな顔しやがって。
大それたこと考えてんなあ。人間なんかさあ、立ったら半畳、寝て1畳もないんだぞ。お前何考えてんだ」
ふっと気づいたら、その人はもう、そこにいなかった。
それで、うちへ電話したら、おふくろが「借金取りが、40人くらいきてるよ!はよ帰ってきて」。
で、借金取りのところへすこすこと帰っていった。
もう帰るときは、「なんとかなるさー」なんて思ってた。
実際、その後借金は返したよ。
1億5,000万。授業料と思って、割り切れるようになった。

高い授業料でしたね
トラックの運転手や八百屋をやって借金を返済していった。
気分転換に、また友達とバイクで三河のスカイラインへ遊びに行った時も事故してね。
30半ば過ぎたんだけど、まだカッコつけたいところがあってね。
若い女の子乗せててね、土手の上にその子を座らせて、かっこいいところ見せようと思って、100キロくらいでコーナーを回ろうとして、こけた(笑)。
オートバイだけが、シャーッと走っていっちゃった。
火事場のクソ力で、オートバイおっかけて、また平気な顔して乗って、岡崎まで走ってった。
そのあたりで、ズキズキ痛みだして、薬局に入って、「水道貸してくださーい」と、キズを見たら、とたんに猛烈に痛くなってきた。膝なんか、肉がもげて、骨が見えてたよ(笑)
気分転換に、また友達とバイクで三河のスカイラインへ遊びに行った時も事故してね。
30半ば過ぎたんだけど、まだカッコつけたいところがあってね。
若い女の子乗せててね、土手の上にその子を座らせて、かっこいいところ見せようと思って、100キロくらいでコーナーを回ろうとして、こけた(笑)。
オートバイだけが、シャーッと走っていっちゃった。
火事場のクソ力で、オートバイおっかけて、また平気な顔して乗って、岡崎まで走ってった。
そのあたりで、ズキズキ痛みだして、薬局に入って、「水道貸してくださーい」と、キズを見たら、とたんに猛烈に痛くなってきた。膝なんか、肉がもげて、骨が見えてたよ(笑)
体がいくつあっても足らないですね(笑)
女の子にはやさしかったから、
いろいろあったよ(笑)。
僕は惚れやすいんで、焼けぼっくりに火がついたりね。
いけないね、やさしくしすぎちゃ(笑)。
いろいろあったよ(笑)。
僕は惚れやすいんで、焼けぼっくりに火がついたりね。
いけないね、やさしくしすぎちゃ(笑)。
(笑)
シーピーセンター鈴木さんは今回で終了です。
次回は「永田や佛壇店の永田社長」です。お楽しみに!
次回は「永田や佛壇店の永田社長」です。お楽しみに!

■今回のインタビュー会場
〜壺中庵〜
豊田市小坂本町1-4-4 アーバンセンセーション1F
Tel / 0565-33-3065
営業時間 /11:00~14:30(o.s.14:00)17:00 〜 22:30(o.s.21:30)
毎日営業しております。
2008年03月26日
永田や佛壇店 永田さん 前書き
■今回の経営者さんは、永田や佛壇店 社長(三河地区COO)の永田浩三さんです。
→永田浩三さんのブログはこちら
→永田や佛壇店のスタッフブログはこちら
→永田や佛壇店のホームページはこちら
インタビューの様子はルーコ井上のブログで。
■今回のインタビュー会場は豊田市竹生町にあるイタリアンダイニング&バー、リストランテ Twice(トワイス)さんで行いました。
〜Twice(トワイス)〜
住所:豊田市竹生町4-62 1F
(旧加茂病院の正門前の道を北へまっすぐ、竹生通に入って、通の右手。)
TEL:0565-37-8737
営業時間:17:00〜03:00(O.S.02:00) 日曜日17:00〜0:00(O.S.23:00)
定休日:月曜日

では、ココバナスタートです!!
〜略歴〜
1965年 岡崎市生まれ。
岡崎市康生町で育つ。
1983年 東京のコンピューター専門学校入学
1985年 大阪の老舗仏壇店 入社
1988年 岡崎に帰省し、永田や佛壇店入社
知立店に営業として配属される。
西尾店 営業。
豊橋店オープン 営業。
本社 本部長、専務取締役を経て、
2005年 代表取締役社長 三河地区COO就任。
→永田浩三さんのブログはこちら
→永田や佛壇店のスタッフブログはこちら
→永田や佛壇店のホームページはこちら
インタビューの様子はルーコ井上のブログで。
■今回のインタビュー会場は豊田市竹生町にあるイタリアンダイニング&バー、リストランテ Twice(トワイス)さんで行いました。
〜Twice(トワイス)〜
住所:豊田市竹生町4-62 1F
(旧加茂病院の正門前の道を北へまっすぐ、竹生通に入って、通の右手。)
TEL:0565-37-8737
営業時間:17:00〜03:00(O.S.02:00) 日曜日17:00〜0:00(O.S.23:00)
定休日:月曜日

では、ココバナスタートです!!
2008年03月28日
永田や佛壇店 永田さん 第一回
〜「あなた変な人ね」と言われると嬉しくなる(笑)〜




では、今日はルーコ井上社長にインタビュー、ということで(笑)。
あれ?やっぱりだめですか?
あれ?やっぱりだめですか?
だめですよ(笑)!永田社長インタビューです。
永田社長がどんな人生を歩んでこられたかをお聞きしたいと思います。
では・・・少年時代から。どんなお子さんでしたか?
永田社長がどんな人生を歩んでこられたかをお聞きしたいと思います。
では・・・少年時代から。どんなお子さんでしたか?
そんな・・・昨晩何を食べたのかも覚えていないのに子供の頃なんて・・・
たぶん、今と変わらないですね。今も昔も精神年齢はお子ちゃまです(笑)。
たぶん、今と変わらないですね。今も昔も精神年齢はお子ちゃまです(笑)。
えっ・・・(笑)。では、永田社長がどういう人かをじっくりお聞きしたいですね。
(笑)典型的なB型?
あの本読んで思ったんだけど、あれはまさに自分ですね。
わがまま。人がやる気満々だとやる気が出ない。
人がやる気がないと、やる気満々になってくる。
「あなた変な人ね」と言われると嬉しくなる(笑)。
わがまま。人がやる気満々だとやる気が出ない。
人がやる気がないと、やる気満々になってくる。
「あなた変な人ね」と言われると嬉しくなる(笑)。
ちょっとやな人ですね(笑)
そう、実はやな人(笑)。
では、少年時代も、何か面白いことして「変な人」と言われてたんですね。
そう、いたずらっ子。女の子にちょっかい出して、喜んでた普通の小学生(笑)。
お父さん・お母さんは、どんなふうでしたか?
商売人の子どもで育ってるから、放置プレイ。
両親に育てられた記憶がないんです。
両親に育てられた記憶がないんです。
誰に育てられたんですか?
お手伝いさん。
親の愛情は、あんまり感じたことなかった。
僕が幼少の頃は、お店のすぐ上が住まいの小さな仏壇屋さんだったので、
両親が一生懸命働く姿を見て育ったんだよね。
お仕事頑張ってるんだって頭では理解できても、子供の心ではなかなか理解できない。
寂しい、というのがずっとトラウマのように、先々まであったかな。
康生町の、永田や発祥の地にビルを建てたのが、僕が小学校1年生のとき。
それまでは、ほんとに小さなお仏壇屋さんだった。
そこから、知立・豊田・・・父がどんどんお店を増やしていって、
今の永田やに至る、ということで・・・
父が中学生のときに、父のお父さん、つまり僕の祖父が病気で亡くなってる。
親父は高校卒業してすぐ仏壇屋の手伝いをしなくてはならなかった。
弟・妹のお父さんがわりもしながら、仏壇屋の店主もしながら、
ほんとに頑張って・・・母と結婚してからは母も店に入って。
祖母と3人で頑張ってた。
普通の会社員の家庭と違って、自宅からお店に降りれば両親はいるわけだから、
頑張ってる姿を見ることができたという点はよかったよね。
父も配達とかで留守がちだったけど、その姿を僕たちに見せることが親の愛情だったのかもしれないね。
親の愛情は、あんまり感じたことなかった。
僕が幼少の頃は、お店のすぐ上が住まいの小さな仏壇屋さんだったので、
両親が一生懸命働く姿を見て育ったんだよね。
お仕事頑張ってるんだって頭では理解できても、子供の心ではなかなか理解できない。
寂しい、というのがずっとトラウマのように、先々まであったかな。
康生町の、永田や発祥の地にビルを建てたのが、僕が小学校1年生のとき。
それまでは、ほんとに小さなお仏壇屋さんだった。
そこから、知立・豊田・・・父がどんどんお店を増やしていって、
今の永田やに至る、ということで・・・
父が中学生のときに、父のお父さん、つまり僕の祖父が病気で亡くなってる。
親父は高校卒業してすぐ仏壇屋の手伝いをしなくてはならなかった。
弟・妹のお父さんがわりもしながら、仏壇屋の店主もしながら、
ほんとに頑張って・・・母と結婚してからは母も店に入って。
祖母と3人で頑張ってた。
普通の会社員の家庭と違って、自宅からお店に降りれば両親はいるわけだから、
頑張ってる姿を見ることができたという点はよかったよね。
父も配達とかで留守がちだったけど、その姿を僕たちに見せることが親の愛情だったのかもしれないね。
お父さんとはほとんど接する機会がなかったということで、
厳しいとか、やさしいとか、そういうこともわからない状態だったんでしょうか?
厳しいとか、やさしいとか、そういうこともわからない状態だったんでしょうか?
いやいや、たまに接するだけでもすごく厳しかった。
僕は次男坊だからまだいいけど、一番殴られていたのは兄。
まあ昔はそんなの日常茶飯事だよね。
何か悪いことしたら、ばこーん!と叩かれてね。
真っ先に叩かれるのは兄で、
僕は、それを見て、臨機応変にかまえてた(笑)。
すごく要領がいいと思う。
3人兄弟の中でも一番要領がいい。
僕は次男坊だからまだいいけど、一番殴られていたのは兄。
まあ昔はそんなの日常茶飯事だよね。
何か悪いことしたら、ばこーん!と叩かれてね。
真っ先に叩かれるのは兄で、
僕は、それを見て、臨機応変にかまえてた(笑)。
すごく要領がいいと思う。
3人兄弟の中でも一番要領がいい。
確かに・・・いい意味で要領のよさそうな空気はありますね。
その場の空気を読み取って、それに合わせることができる、とは自分でも思うところ。
人が何を考えてるのか、感じてるのか、ということを
感じ取る力はすごくあると思う。
人が何を考えてるのか、感じてるのか、ということを
感じ取る力はすごくあると思う。
人が盛り上がってるときに、冷静になっていたり・・・?
もともとお酒が好きじゃないし、飲まないので、
飲み会なんかでは、合わせてるけれど実は冷静に見てるね。
経営にしても、感覚の部分はあるけど、僕は分析屋タイプなので、まず分析から入る。
飲み会なんかでは、合わせてるけれど実は冷静に見てるね。
経営にしても、感覚の部分はあるけど、僕は分析屋タイプなので、まず分析から入る。
お父さんのことをお聞きしましたが・・・
お母さんはどんな方でしたか?
お母さんはどんな方でしたか?
母親のことは・・・あまり覚えてない。
幼少時代に、たまに家族旅行に連れてってもらった記憶はあっても
普段愛情かけてもらった記憶がほんとにないんです。
幼少時代に、たまに家族旅行に連れてってもらった記憶はあっても
普段愛情かけてもらった記憶がほんとにないんです。
ご兄弟が寝る頃に、お母さんが帰ってくる、という生活・・・?
うーん・・・康生のビルを建てる前の保育園時代の記憶がほとんどないんです。
建ててからの記憶は・・・自分の部屋をそれぞれ与えられて、そこで一人で寝なさいよ、だったから・・・。
小学校の1年生や2年生だったら、たまにはお母さんと寝たいと思うでしょ・・・。
でも、母は店を夕方遅くに閉めて、それから帳面つけて・・・
って仕事をしてたから8時9時にならないと家に上がってこない。
子どもはもう寝る時間だから、接する時間がぜんぜんなかった。
それでも夜中に怖い夢を見て、甘えて一緒に寝てもらったのは兄弟の中で自分が一番多いかも。
とても怖がりで甘えん坊だったんです。
建ててからの記憶は・・・自分の部屋をそれぞれ与えられて、そこで一人で寝なさいよ、だったから・・・。
小学校の1年生や2年生だったら、たまにはお母さんと寝たいと思うでしょ・・・。
でも、母は店を夕方遅くに閉めて、それから帳面つけて・・・
って仕事をしてたから8時9時にならないと家に上がってこない。
子どもはもう寝る時間だから、接する時間がぜんぜんなかった。
それでも夜中に怖い夢を見て、甘えて一緒に寝てもらったのは兄弟の中で自分が一番多いかも。
とても怖がりで甘えん坊だったんです。
その後、お兄さんが大学へ行って・・・家を出られたんですか?
兄は、出来がよかったから、大学も一流で慶応。
東京へ出て行ったよ。
弟は国立大だしね。
僕は、3人の中で一番出来が悪かった。
高校からもう勉強するのがいやだった。
これからコンピューターの時代が来るのかなと思って、東京のコンピューターの専門学校に行かせてもらった。
2年間勉強して、卒業したと同時に、大阪の仏壇屋さんに修行で2年半。
東京の町も大阪の町も見て、で、昭和の終わり63年に岡崎に帰ってきて永田やに入社した。
10月に帰ってきて、3ヶ月くらいで平成になった。
それからもう20年、だね。
東京へ出て行ったよ。
弟は国立大だしね。
僕は、3人の中で一番出来が悪かった。
高校からもう勉強するのがいやだった。
これからコンピューターの時代が来るのかなと思って、東京のコンピューターの専門学校に行かせてもらった。
2年間勉強して、卒業したと同時に、大阪の仏壇屋さんに修行で2年半。
東京の町も大阪の町も見て、で、昭和の終わり63年に岡崎に帰ってきて永田やに入社した。
10月に帰ってきて、3ヶ月くらいで平成になった。
それからもう20年、だね。
帰って来い、と言われたんでしょうか?
いえいえ、修行は2年半って最初から決まってたよ。
期間限定。
帰ってきて、とりあえず、営業。
期間限定。
帰ってきて、とりあえず、営業。
入社はとても自然な感じで・・・?
まあ、最初から帰ってくることわかってたからね。
兄は先に帰ってきてたし。
兄は先に帰ってきてたし。
少年時代から、そういうものだと認識していたということでしょうか?
両親が頑張っているのを見て育ってるから、
「僕も仏壇屋をやるんだなー」と自然に思うよね。
まあ、やらなくても何にも言われなかったとは思うけど。
親父にやれって言われたことは一度もない。
「おまえがやりたいならやれ」ってね。
「僕も仏壇屋をやるんだなー」と自然に思うよね。
まあ、やらなくても何にも言われなかったとは思うけど。
親父にやれって言われたことは一度もない。
「おまえがやりたいならやれ」ってね。
次回に続きます!!