2008年02月26日

シーピーセンター鈴木さん 前書き

■今回の経営者さんは、シーピーセンター(株)の鈴木福見さんです。
〜略歴〜
昭和27年、豊田市生まれ、豊田市育ち。
沢山いる兄弟の長男で、弟・妹たちを学校へいかせるため、自身は中卒で寿司屋の小僧として修行に入る。その後、七転び八起きの波乱万丈人生が待っていた!
平成12年創業。パソコンなどの回収、リサイクルを始め、リース会社と取引するという県内業界初の試みが成功。

→鈴木福見さんのブログはこちら
→シーピーセンターのホームページはこちら

インタビューの様子はルーコ井上のブログで。


■今回のインタビュー会場は豊田市小坂本町にある「壺中庵」さんで行いました。

〜壺中庵〜
豊田市小坂本町1-4-4 アーバンセンセーション1F 
Tel / 0565-33-3065
営業時間 /11:00~14:30(o.s.14:00)17:00 〜 22:30(o.s.21:30)
毎日営業しております。



では、ココバナスタートです!

  


Posted by ルーコです。  at 15:29コメント(0)シーピーセンター社長 鈴木福見さん

2008年02月27日

シーピーセンター鈴木さん 第一回

〜実は40兆円分ものレアメタル(価値ある金属)が日本中の家庭や事業所の電化製品の中などに眠ってるんだよ。〜


 

OA機器のリサイクルをメインに様々な事業を展開していらっしゃいますね。
今後はどんなふうに展開されるんですか?

 
やっぱりこれからもOA機器のリサイクル・処分がメインだね。
始めて足かけ14年たちました。
当初はライバルがいなくてOAの産廃というのはとても儲かったんだよ。
でも、ここ最近、産廃からリサイクルという考え方へシフトしてきたよね。
ごみからお金に変わった。
非常にスピーディーに変わっていて、ライバルが激増だよ。
ライバルは多いけど、リサイクルを拡げていくのがうちの会社の使命。

 

リサイクルは、だいぶ世の中に浸透してきているように思いますが、
いかがですか?

 
う〜ん、まだまだこれからと思うこともありますよ。
日本の人には、新しいものをつくるよりも、もともとの資源をもっと活かしてほしいね。
いい例があってね・・・王子製紙という会社は、割り箸を、無料で処理し、燃料に換えてる。
割り箸1本でも心がけることで、東南アジアの原木伐採を、抑えることができる。
また、廃タイヤを、毎日200tを、紙を作る燃料として燃やしている。
タイヤのカスと、一般プラスチック、木のごみ・・・
ひとつの工場で毎日400t。
これが、全国に7ヵ所もある。
こういう再利用が、盛んに今行われている。

 

OA機器も、回収後にいろいろ活かされているんですよね?



 
そうだね。
パソコン、ゲーム機などを、粗大ごみの袋に入れちゃうと、埋め立てられちゃうゴミでしかないんだけど、ほんとは素材の集大成。
税金が、埋め立てなどゴミの処理に使われているのはもったいないよね。
リサイクルできる一般業者に引き取りを頼むと、金額が見えるからどうしても「高い」と思っちゃうんだよね。

 

確かに、思っちゃうこともありますよね。



 

そこがなんとかしなきゃいけないところで・・・、行政がゴミとして引き取っても、ほんとは同じくらいお金かかっているんだよね。
税金使ってるから個々の人には感じないけど。


 
そうですね。
なかなか気付きにくいところですね。
思えば、ゴミ回収も、人や機械が動くわけだから当然お金が動きますよね。

 
みんながそのことを理解して、資源をリサイクルし素材化していく世の中にならないとね。
日本は、工業製品の原料資源の99%を海外に頼っているわけだから、リサイクルしていかないとダメだよね。
一般の業者がリサイクルで収益を得るよりも、天下りの行政団体が、引き取って埋め立てちゃう方がてっとり早い・・・
こういうの、変えないといけないよね。
日本という国を、もう一回見直すときにきていると思う。
国がやってくれないからできない、じゃなくて、みんなが変えていく。

 

リサイクルから、日本という国のことまで考えたことはありませんでした。
仕組みを知って、意識が変わりました。

 

実は40兆円分ものレアメタル(価値ある金属)が日本中の家庭、事業所に眠っている。
日本にはそういう物体が存在しないので、輸入してるけど、実は、日本国内に、そんなにたくさんあるんだよ。
あるのに、輸入してるの。

 

わ〜、聞くだけで、もったいなくていたたまれないですね。



 
工業製品の原材料を今、中国やインドにとられている。
国内に、これだけ持ってるんだから、活かさないとね。
集めて、新たにレアメタルとして生まれ変わる過程に、うちの会社が存在して、生まれ変わりのお手伝いをしてる。
パソコン・液晶テレビ・炊飯器・・・・・TFTと表示についてるやつは、みんなレアメタルの宝庫。
すごいピッチで、生まれ変わっていて、われわれのような業者間で奪い合いになっている。
昔は、誰も持っていかなかったでっかいゴミなんだけどね。
うちの会社は、誰も持っていかなかったでっかいゴミを処分することから始まったわけ。
また、障害者の雇用がそこに生まれる。
国が、行政が、って待っているだけじゃダメで、まわりのみんなの手助けで、そういう仕組みを作ることが大切。


次回に続きます!!
  


Posted by ルーコです。  at 11:53コメント(0)シーピーセンター社長 鈴木福見さん

2008年03月12日

シーピーセンター鈴木さん 第二回

〜知恵で勝負!
誰も目をつけていないものに目をつける・・・
仕事が楽しくて仕方なかったよ。〜




リース会社から事務機器などを引き取ってくる仕事は、鈴木社長が考え出したビジネスモデルと聞きましたが、今では普通になっていることでも、最初に考えついて取り組んだというのはすごいですね。

個人で創業した当初(平成7年)、パソコン集めるというのは、環境問題じゃなかった。
集めること自体が仕事。
パソコンの新品がまだ100万円くらいしたときだから、パソコンは回収すると商品になった。
1998年の産業廃棄物処理法ができて、それをきっかけに環境問題につながっていった。
それまで、ぼくが回収してきたものの大半は、スクラップの材料問屋へ持っていってたけれど、
環境問題がでてきて、リサイクルの提案を企業にするようになった。


素早い対応ですね



そう、経営者は計画だけではダメ。実行力が大切。
産廃を産廃にしない。そうこするうちに、ISOという国際基準がでてきて、人の意識がより環境へ向いた。
僕の事業は、産廃から環境、情報処理へ向かった。


成長するときだからこその、大変さもあったんでしょうか?



そうだね。どんな商売も、積み上げだよね。
伸びていけばコストが下がってよくなるけど、経営ってものは大変だね。
設備投資をして、人が増えればその分大変になる。
個人からはじめて、今10年目。
年30パーセントくらい成長しているけど、えらい。きつい。厳しい。
伸ばせば伸ばすほど、きついね。
経営は苦労。でも、いろいろ乗り越えてがんばっていかないとね。
10億の投資を決めたときは、売上2億7千万円で、
いいところへ持っていくまでには、12億円〜15億円の売上にしないといけない。
新社屋、物流の車両、社屋の中の機械・設備、関東の450坪の倉庫・営業所、
関西の150坪の倉庫・営業所、水の自販機新規事業(多角化)
夢と目的・・・8割は達成しているかな。でも燃料の高騰化などの社会事情で2割が打撃を受けている。
打撃を受けやすい業種なんだよね。


現状を受けて、今後の事業展開をどうするといったことは、もうご計画中ですか?



関東・中部・関西に拠点がかまえてあるので、それをどういかして会社をつくっていくか。
九州や東北にもでていきたい。タイ・シンガポールなど東南アジアにもでていきたい。
同じ事業で、海外でも、コンピューターの技術が進んでいて、データの管理・処理をちゃんとしようと提案できたら・・・
うちのビジネスモデルが海外でも通用すると思う。


先を見て、目標を掲げているんですね



夢は高くもたなきゃ。ハードルは高く。
低いとコストを超えることすらできない。
高すぎても超えられない。(笑)
けど、これを超えるために何をしなきゃならないか・・・
自分たちがかかげた売り上げ目標の達成。
たくさん労働しなきゃならないつらさはあるが、しゃにむに働いて、達成したときの喜び、報酬を、若い子たちに味わわせたい。


そういった喜びを知っているからこその、気持ちですね。



創業前は、ある運送会社の役員だった。
バブルがはじけて、運転手のリストラをやることになった。
それを2年かけてやり終わったら、オイルショックで僕もリストラ。
子どもがみんな大学へ行ってたから、食っていけなかった。
40過ぎのお父さんを雇ってくれるとこはないし、学歴もない。学歴はないけど知恵がある!


生きていくための力ですね。



自分で何かやるしかないということで、始めた。
 たまたま運送やってるときに、スクラップ運んでいて、これはお金になるんだろうなと思ったから、“よし、粗大ゴミを運んでお金にしよう”と。でも、娘が、豊田で拾うのははずかしいと言うので、名古屋まで拾いに行った。
冷蔵庫・エアコン・テレビ・・・を集めてきた。
日本で使わなくなったものでも、海外へ持っていくと、十分使えるものだから、台湾や中国の人とやりとりして、冷蔵庫5000円、エアコン7000円とか、お金になった。
一生懸命トラックで集めに行ったね。でも、いいことは長くは続かないんだよ。
それを見ていてマネする人が出てきた。


お金になることは、誰かがマネしだすんですねー。



そう、粗大ゴミを拾って運ぶ、という市場にライバルが出てきた。
それまでは、朝の5時くらいに行けば、たくさんあったのに、ライバルの登場で、朝5時に行ってもなんにもない。
僕は商売としてやろうとしていたけど、ホームレスがやりだした。商品がなくなる・・・
さらにその頃、リサイクルショップがブームになってきた。
新品は、メーカーへ行って仕入れれば同じものが手に入るけど、リサイクルショップはそうはいかない。
夜中の1時に拾いにいかないと、ない。そんな時間に拾ってると、泥棒みたいだよね。(笑)
“この事業も、2年くらいで終わりだな”と思ったね。


それから、どうされたんですか?



今度は、いろんな家電ショップに、「いらないものないですか?」と聞きに行くようになった。
家電ショップには、一般家庭から引き取ってくるものがある。
みんな、処分屋さんにお金払って引き取ってもらっていたので、僕が行くと、
「タダで持っていってくれるなら、あげるよ」と。
電気屋さんを3件回るとトラックいっぱいになった。
ひとりでやってる分には、お金になったね。
だけど、これを企業としてやっていくにはどうしたらいいか、と考えたとき、たまたま東京でパソコンの回収をしている若者に会った。彼は「今はパソコンの中古を集めるときだよ。」って言っていたね。
そのとき僕45才。
パソコン回収の若者は、一人で、売上2億〜3億あげていた。
パソコンの新品がまだ100万円くらいしたときだから、回収して40〜50万円で売れる。
リース会社で2000円とか3000円で売ってもらうわけなので、大変儲かる。
まだパソコンが一般化していない時代だからね。
ハードディスクのないコンピューターの頃。
そういうものがお金に換わることはわかった。
どういう流れを作ったら、ビジネスモデルになるか、と考えた。
回収したパソコンは、どこでどうやって使われるのか・・・ 
企業だよね。それもパソコンが2〜3台ある100人くらいの会社。
そういうところへパソコンを回収にいく仕事をしよう、と。
最大手のリース会社、ダイヤモンドリースさんや住友リースさんに提案書を持って話に行ったのが、12年くらい前。
「あんたおもしろいこと考えるね」と言われた。
まだ、誰も気づかない、やっていないことだったから。今は、ライバルいっぱい。



目のつけどころがいいですね!



誰も目をつけていないところに目をつけ、事業を始める・・・仕事がおもしろかったー。
創業当初は3人。
パソコン集めに、北海道や九州へ行って車の中で寝る。
その頃は、トラックの中で野宿してたね。
リース会社がお客様で、所有者はリース会社で、使用者が全国に広がってる。
「全日空さんのものをひきとって」は「日本中の空港に置いてあるけどいい?」ってことだよね。
トヨタレンタリースも日本中。
仕事としては、ハードだけど、会社の用事で全国へ行けるから楽しい。
外へ出て行くことが好きな人は、楽しいと思うよ。(笑)
トラックの仕事と違って、時間にゆとりがあった。
「これがいくらになる」という計算もできた。
たとえば、九州の鹿児島空港の日本航空さんに、パソコンが10台あるという連絡が入る・・・
リース会社から2000円、売るのは5万円。10台で50万円になるわけ。
飛行機で行って、レンタカーで回収して、温泉入って帰ってきても、十分採算がとれた。
今はそういうわけにいかないけど、当時はライバルがいなくて優雅だった。
始めたばかりのときは、楽しかったー。(笑)
 今は、パソコンの価値が、10分の1から15分の1しかないから、大変だね。


大当たり!ですね!



それでも、いつもいいストレートが出るとは限らない。
いつもヒットが出るとは限らない。
野球で言うと、ちょうど今中盤。
5回の裏あたりで、厳しいところだね。
恋愛でも中盤が難しいでしょ。(笑)
ゴールが見えない中盤は、モヤモヤしていて。
結婚に行くまで、長い期間恋愛していたら、結婚に至らない。
案外、終わりも早い。
考えるまでいかない。僕なんか、一気に決めちゃう。
結果よければ、よし、っていう感じで(笑)。


今の奥さんおきれいですよね。



きれいっていうより、賢いよ。
だんなを手のひらで転がしてる。(笑)
うまいことネジまいて、うまいこと外へ出て行くようにしてる。
家庭の中の整え方が、とてもうまい。
うまいよなあと、思う。すごいなあと、思う。
それを世の中の女性がやったら、
男の子なんかみんな一生懸命がんばっちゃう(笑)。



次回に続きます!!

  


Posted by ルーコです。  at 19:24コメント(0)シーピーセンター社長 鈴木福見さん

2008年03月19日

シーピーセンター鈴木さん 最終回

〜九死に一生を何回も。
僕の人生はほんとに生かされてる人生。〜



女房は、急にどっか行くよ、というのがダメ。前もって言わないと、とね。
で、前もって言うと、そのドライブの日は、朝4時とか5時に起きて、何か準備したりね。
計画的にぴしっぴしっとやらないと気がすまない性格なんだね。
僕とは正反対(笑)。
女房は、何事も、パシッとすぐ決める。
だから僕にとってとてもありがたい存在。
ほんとに、あの性格が僕と入れ替わっていたら、女房の方が、3倍も4倍も成功していたに違いないよ。
何事もプランをたて、そのプランに沿って、きちんと進めるからね。


そんな奥様の支えも大きいですね。



女房には、「あなたはブレるからいけない」と言われる。
なんでもやりたがるから会社経営に関してもブレることがある。
女房に、「あなたは一人しかいないんだから、あれもこれも一人でやろうとしたらダメじゃない?」と言われた。
「あなたがやったんじゃなくて、やれる人がいたからできたんでしょ」と叱られました。
回収業と運送業はレパートリーだけれど、ベンダー業、リフォーム業は任さないと。
携われないものはやらない方がいいと女房は言うけれど、ベンダー業を一生懸命やっているスタッフがいるから、
応援してがんばっていきたいしね。
ところで井上さん、お酒飲める方?


好きですけど、弱くてすぐ酔っ払って楽しくなっちゃうので控えめに・・・
鈴木社長は飲めそうな感じですね〜。


半分脳梗塞やりかけて、控えてる。
ほんとに死んじゃうかと思った。
血圧が40くらいまで下がり、体温も32℃なんていう状態になっちゃったんだよ。
仮死状態だよ。
ぐらぐら〜っときて倒れちゃった。
会社初めて3期目に、初めてマイナス。
みんなに檄飛ばして、焼酎3杯、生中3杯、ブランデーをロックで2杯・・・
ゴテンと寝て・・・目が覚めたら手足が動かない!
手足が冷たくなってることがわかった。
今の奥さんと、まだ同居してなかったから、甥っ子呼んで、病院に連れてってもらい、点滴3本打ってもらったらすぐ復活できた。その足で東京出張に行ったね。入院も検査もなしで・・・。

 


大丈夫だったんですか?



「お前はまだまだやることあるぞ」と天から言われてるのかな、と思いました。
創業時は宝くじみたいな仕事が多かった。
5000台、引き取ってもらいたい、とか。パソコン創生期だったから、需要が集まった。
ひとつのビジネスモデルで昔は30年もったね。けれど、今は10年もたない。
会社というものは、3年で6割減る。で、5年で、そのうちの5割減る。
それを越すと、なんとか10年いける。さらに、そこを超えると、20年くらいもつ。


怖いですねー。



5年、10年たつと、投資をすることになる。
こういうときが、管理や意思疎通が一番難しい。
新社屋を作ったからって、すぐ仕事が入ってくるんじゃない。
経営者は、それをもとに、何かやろうと日々考えるけど、社員さんはなかなかそういう発想にならない。
一緒に夢を見ようという雰囲気にしていくために、経営者はいろいろがんばらないとね。
昔は、奉公で働いたから、「あたりまえ」だったけどね。
寿司屋の小僧で月1回だけの休み。
正月とお盆で2日ずつの休み。
それがあたりまえだったね。
6,000円(今でいう60,000円くらい)の給料だった。
教えてもらうんでなく、周りのやってることを見よう見真似で覚えていった。
ちっちゃい寿司屋で小僧やってたから、裏方のいろんな仕事をなんでもやらせてもらえて、自分でどんどん吸収していったね。
先輩がパチンコに行っちゃって、「お前用意しとけよ」ということが、僕にはうれしかった。
機会をいただけた、と思ったからね。
誰よりも先に、いい仕事ができる人間になれると思ってがんばったね。

 

習うより慣れろですね。自分で仕事を吸収していくのが「あたりまえ」なんですよね。




初任給の6,000円は、親父が呑みに行って終わっちゃった。
親父がその頃無職でのんべえで、つらいことはお酒に逃げる人だった。
たくさんいる妹・弟に、何かしてやれると思ったんだけどね。


ここでちょっと、鈴木社長の人生を年を追って教えて下さい。



昭和27年 8月16日生まれ。
15才で、寿司屋で小僧に入って・・・
自分は長男で下にたくさん弟・妹がいて、父は失業中だっため、高校へ行かずに就職した。
兄妹の中で、高校行ってないのは自分だけ。
お兄ちゃんだから働きなさいね、というわけ。
17才まで寿司屋にいたけど、給料安かったから、妹・弟の生活費や学費を稼ぐために転職。
18才で八百屋に入った。
今みたいに流通がしっかりしていなかったから、ある意味、博打ができた。
その日その日によって相場が変わるでしょ。
いい意味で上手に博打する人に弟子入りできた。
荷物をとったら、その人が相場を支配できた。
今ではあたりまえにいろんな野菜が流通しているけど、
三河で作ってない野菜を流通させるのは、新しいビジネスだったね。
相場をはる人は、荷物を取り寄せる情報網を持っていた。
電話1本で、レタスがトラックいっぱいに到着する。
三河でトマトができないときに、遠方へ行って仕入れてくる、ということをしていた。
情報が流通し始めて、このビジネスは下火になり、トラック運転手に転職した。


ほんとうに、いろいろな経験とご苦労もされているんですね



計画は大事。でも、それは絵に描いた餅。
経営者は実行する勢いと努力、時期、その判断が重要。
僕は勢いだけで実行する。
途中で息切れしてしまったりもするけど、それでも勢いで乗り切る(笑)
 
ところで、焼肉勢はいいわ〜
おいしかったよー。
今度から誰かとちょっと行くときは、勢だなーと思ってる。
もう3回行ったかな。
あそこは、味にムラがない。いい肉そろえてるよ。
年取るとそんなに食べないから、おいしいものを少しでいい。だから、勢がいい。
 
和食はここ(壺中庵)がいいね。商談や打ち合わせにもいいしね。凝った話のときに、座敷もいいよ。


ところで・・・額のキズあとは、どうされたんですか?

 

5つのときに、交通事故にあってね。
昭和32年。
まだほとんど車が通らなかった時代に、豊田で初の交通事故。
おふくろと歩いていて、向こうから走ってくるオートバイにぶつかって、72針の大手術。
フロントフォークのフェンダーがあたって、スパーッと切れた。
半年間意識不明だった。
だから、ほんとに僕の人生、生かされてる人生だと思うよ。

その後、オートバイが大好きで
3回ほど、死に掛けるほどの派手な怪我したもんだけど、
やっぱり死なずに生きている・・・

スーパーカブで、久保町の交差点で正面衝突したことがある。
その時、ぴゅーっと自分の体が飛んでいくのがわかったよ。
「ああ、飛んでるわ」と実感した。
「あの壁にぶつかったらもうおしまいなんだろうな」と
考えるくらい、その飛んでる一瞬が鮮明だった。
「あの壁の前に立てたら、助かるんだけど・・・」とも思った。
そしたら、スタッと立っていた。
まわりはびっくりして救急車呼んでたけど、まったくなんともない。
逆にそれが恥ずかしくて、逃げ帰っちゃった。(笑


まったくなんともない?!



衝突はすごい派手だったので、ほんと、九死に一生とはこのこと。
つくづく、僕の人生、生かされてる人生だよ。
だから僕は、人生どんな苦難があっても勝てると思ってる。


強運ですね



最初の会社が、いよいよ倒産してしまうというとき・・・
自殺しようと思って、ガソリンを40リットルつんで、衣浦の埠頭で2泊したんだけどね。
死にきれずに、2泊して目覚めた朝、仙人みたいな人が魚釣ってたの。
その人のひとことで、なんか、今まで自殺をと考えていたのが、急に、どっかいっちゃった。
「お前何考えてんだ。世の中一人で背負ってるみたいな顔しやがって。
大それたこと考えてんなあ。人間なんかさあ、立ったら半畳、寝て1畳もないんだぞ。お前何考えてんだ」
ふっと気づいたら、その人はもう、そこにいなかった。
それで、うちへ電話したら、おふくろが「借金取りが、40人くらいきてるよ!はよ帰ってきて」。
で、借金取りのところへすこすこと帰っていった。
もう帰るときは、「なんとかなるさー」なんて思ってた。
実際、その後借金は返したよ。
1億5,000万。授業料と思って、割り切れるようになった。

 


高い授業料でしたね



トラックの運転手や八百屋をやって借金を返済していった。
 
気分転換に、また友達とバイクで三河のスカイラインへ遊びに行った時も事故してね。
30半ば過ぎたんだけど、まだカッコつけたいところがあってね。
若い女の子乗せててね、土手の上にその子を座らせて、かっこいいところ見せようと思って、100キロくらいでコーナーを回ろうとして、こけた(笑)。
オートバイだけが、シャーッと走っていっちゃった。
火事場のクソ力で、オートバイおっかけて、また平気な顔して乗って、岡崎まで走ってった。
そのあたりで、ズキズキ痛みだして、薬局に入って、「水道貸してくださーい」と、キズを見たら、とたんに猛烈に痛くなってきた。膝なんか、肉がもげて、骨が見えてたよ(笑)


体がいくつあっても足らないですね(笑)



女の子にはやさしかったから、
いろいろあったよ(笑)。
僕は惚れやすいんで、焼けぼっくりに火がついたりね。
いけないね、やさしくしすぎちゃ(笑)。


(笑)




シーピーセンター鈴木さんは今回で終了です。
次回は「永田や佛壇店の永田社長」です。お楽しみに!



■今回のインタビュー会場
〜壺中庵〜
豊田市小坂本町1-4-4 アーバンセンセーション1F 
Tel / 0565-33-3065
営業時間 /11:00~14:30(o.s.14:00)17:00 〜 22:30(o.s.21:30)
毎日営業しております。
  


Posted by ルーコです。  at 17:35コメント(0)シーピーセンター社長 鈴木福見さん

2008年03月26日

永田や佛壇店 永田さん 前書き

■今回の経営者さんは、永田や佛壇店 社長(三河地区COO)の永田浩三さんです。
〜略歴〜
1965年 岡崎市生まれ。
岡崎市康生町で育つ。
 
1983年 東京のコンピューター専門学校入学
 
1985年 大阪の老舗仏壇店 入社
 
1988年 岡崎に帰省し、永田や佛壇店入社
知立店に営業として配属される。
西尾店 営業。
豊橋店オープン 営業。
本社 本部長、専務取締役を経て、
2005年 代表取締役社長 三河地区COO就任。

→永田浩三さんのブログはこちら

→永田や佛壇店のスタッフブログはこちら
→永田や佛壇店のホームページはこちら

インタビューの様子はルーコ井上のブログで。


■今回のインタビュー会場は豊田市竹生町にあるイタリアンダイニング&バー、リストランテ Twice(トワイス)さんで行いました。

〜Twice(トワイス)〜
住所:豊田市竹生町4-62 1F
(旧加茂病院の正門前の道を北へまっすぐ、竹生通に入って、通の右手。)
TEL:0565-37-8737
営業時間:17:00〜03:00(O.S.02:00) 日曜日17:00〜0:00(O.S.23:00)
定休日:月曜日



では、ココバナスタートです!!

  


Posted by ルーコです。  at 11:00コメント(0)永田や佛壇店社長 永田浩三さん

2008年03月28日

永田や佛壇店 永田さん 第一回

〜「あなた変な人ね」と言われると嬉しくなる(笑)〜



では、今日はルーコ井上社長にインタビュー、ということで(笑)。
あれ?やっぱりだめですか?


 
だめですよ(笑)!永田社長インタビューです。
永田社長がどんな人生を歩んでこられたかをお聞きしたいと思います。
では・・・少年時代から。どんなお子さんでしたか?

 
そんな・・・昨晩何を食べたのかも覚えていないのに子供の頃なんて・・・
たぶん、今と変わらないですね。今も昔も精神年齢はお子ちゃまです(笑)。

 
えっ・・・(笑)。では、永田社長がどういう人かをじっくりお聞きしたいですね。



 
僕のことを知りたければ、「B型自分の説明書」を読んで下さい(笑)。





 
(笑)典型的なB型?



 
あの本読んで思ったんだけど、あれはまさに自分ですね。
わがまま。人がやる気満々だとやる気が出ない。
人がやる気がないと、やる気満々になってくる。
「あなた変な人ね」と言われると嬉しくなる(笑)。

 
ちょっとやな人ですね(笑)



 
そう、実はやな人(笑)。




 
では、少年時代も、何か面白いことして「変な人」と言われてたんですね。



 
そう、いたずらっ子。女の子にちょっかい出して、喜んでた普通の小学生(笑)。



 
お父さん・お母さんは、どんなふうでしたか?



 
商売人の子どもで育ってるから、放置プレイ。
両親に育てられた記憶がないんです。



 
誰に育てられたんですか?



 
お手伝いさん。
親の愛情は、あんまり感じたことなかった。
僕が幼少の頃は、お店のすぐ上が住まいの小さな仏壇屋さんだったので、
両親が一生懸命働く姿を見て育ったんだよね。
お仕事頑張ってるんだって頭では理解できても、子供の心ではなかなか理解できない。
寂しい、というのがずっとトラウマのように、先々まであったかな。
 
康生町の、永田や発祥の地にビルを建てたのが、僕が小学校1年生のとき。
それまでは、ほんとに小さなお仏壇屋さんだった。
そこから、知立・豊田・・・父がどんどんお店を増やしていって、
今の永田やに至る、ということで・・・
父が中学生のときに、父のお父さん、つまり僕の祖父が病気で亡くなってる。
親父は高校卒業してすぐ仏壇屋の手伝いをしなくてはならなかった。
弟・妹のお父さんがわりもしながら、仏壇屋の店主もしながら、
ほんとに頑張って・・・母と結婚してからは母も店に入って。
祖母と3人で頑張ってた。
普通の会社員の家庭と違って、自宅からお店に降りれば両親はいるわけだから、
頑張ってる姿を見ることができたという点はよかったよね。
父も配達とかで留守がちだったけど、その姿を僕たちに見せることが親の愛情だったのかもしれないね。

 
 
お父さんとはほとんど接する機会がなかったということで、
厳しいとか、やさしいとか、そういうこともわからない状態だったんでしょうか?


 
いやいや、たまに接するだけでもすごく厳しかった。
僕は次男坊だからまだいいけど、一番殴られていたのは兄。
まあ昔はそんなの日常茶飯事だよね。
何か悪いことしたら、ばこーん!と叩かれてね。
真っ先に叩かれるのは兄で、
僕は、それを見て、臨機応変にかまえてた(笑)。
すごく要領がいいと思う。
3人兄弟の中でも一番要領がいい。

 
確かに・・・いい意味で要領のよさそうな空気はありますね。



 
その場の空気を読み取って、それに合わせることができる、とは自分でも思うところ。
人が何を考えてるのか、感じてるのか、ということを
感じ取る力はすごくあると思う。

 
人が盛り上がってるときに、冷静になっていたり・・・?



 
もともとお酒が好きじゃないし、飲まないので、
飲み会なんかでは、合わせてるけれど実は冷静に見てるね。
経営にしても、感覚の部分はあるけど、僕は分析屋タイプなので、まず分析から入る。

 
お父さんのことをお聞きしましたが・・・
お母さんはどんな方でしたか?


 
母親のことは・・・あまり覚えてない。
幼少時代に、たまに家族旅行に連れてってもらった記憶はあっても
普段愛情かけてもらった記憶がほんとにないんです。

 
ご兄弟が寝る頃に、お母さんが帰ってくる、という生活・・・?


 
うーん・・・康生のビルを建てる前の保育園時代の記憶がほとんどないんです。
建ててからの記憶は・・・自分の部屋をそれぞれ与えられて、そこで一人で寝なさいよ、だったから・・・。
小学校の1年生や2年生だったら、たまにはお母さんと寝たいと思うでしょ・・・。
でも、母は店を夕方遅くに閉めて、それから帳面つけて・・・
って仕事をしてたから8時9時にならないと家に上がってこない。
子どもはもう寝る時間だから、接する時間がぜんぜんなかった。
それでも夜中に怖い夢を見て、甘えて一緒に寝てもらったのは兄弟の中で自分が一番多いかも。
とても怖がりで甘えん坊だったんです。

 
その後、お兄さんが大学へ行って・・・家を出られたんですか?


 
兄は、出来がよかったから、大学も一流で慶応。
東京へ出て行ったよ。
弟は国立大だしね。
僕は、3人の中で一番出来が悪かった。
高校からもう勉強するのがいやだった。
これからコンピューターの時代が来るのかなと思って、東京のコンピューターの専門学校に行かせてもらった。
2年間勉強して、卒業したと同時に、大阪の仏壇屋さんに修行で2年半。
東京の町も大阪の町も見て、で、昭和の終わり63年に岡崎に帰ってきて永田やに入社した。
10月に帰ってきて、3ヶ月くらいで平成になった。
それからもう20年、だね。




帰って来い、と言われたんでしょうか?



 
いえいえ、修行は2年半って最初から決まってたよ。
期間限定。
帰ってきて、とりあえず、営業。

 
入社はとても自然な感じで・・・?



 
まあ、最初から帰ってくることわかってたからね。
兄は先に帰ってきてたし。



 
少年時代から、そういうものだと認識していたということでしょうか?



 
両親が頑張っているのを見て育ってるから、
「僕も仏壇屋をやるんだなー」と自然に思うよね。
まあ、やらなくても何にも言われなかったとは思うけど。
親父にやれって言われたことは一度もない。
「おまえがやりたいならやれ」ってね。

 

次回に続きます!!

  


Posted by ルーコです。  at 13:22コメント(0)永田や佛壇店社長 永田浩三さん

2008年04月03日

永田や佛壇店 永田さん 第二回

〜企業って人でしょ、一番大事なのは。 〜
 


コンピューターの学校に行ってらっしゃる頃に、
デザインの勉強もされたんですか?


 
それは、ぜんぜん。僕がコンピューターの学校に行ってた頃は、
まだコボルとかフォートランというコンピューター言語の時代で、
WINDOWSが出る前。
今、その頃の知識はまったく使えない。
すごく勉強はしたけどね。
2年間は東京に遊びに行ってたと考えた方がいいかも。
人生勉強かな。

 
どんな遊びをなさったんですか?(笑)



 
それはご想像にお任せします。(笑)




 
東京は楽しいところですよね。



 
そうだね、でも・・・東京2年、大阪2年半いたでしょ、で、どちらに住みたいかと聞かれれば、僕は大阪って答えるね。
愛知県や東京の人で、大阪で住んだことがない人にとっては、大阪ってけっこう抵抗感あるんじゃない?
ちょっと怖いな、とか、井上社長はそう思わない?

 
そうですね・・・確かに、怖そうな気もしますね。



 
でもね、いっぺん入り込んじゃうと、すんごいいいよ。
大阪は人情味あふれててね。
でも、やっぱり一番好きなのは岡崎。



 
岡崎のどういうところが好きですか?



 
城下町ですごく住みやすいし・・・。




 
住みやすいというのはどういうふうに?



 
東京や大阪は渋滞するし、物価も高いし。
岡崎は、買い物するにもすぐそばにイオンがあったりとか、
本屋さんにすぐ行けたり・・・それなりに自然もあるし。
岡崎公園の桜とか、花火大会とかのイベントもあるし、
僕は好きだなあ。

 
文化もあっていいですよね。



 
八丁味噌さんにしても、古くからあるでしょ。そういう古くからの企業さんがあって、そういう岡崎が僕は好き。



 
ところで、デザイン制作ソフトのフォトショップやイラストレーターも
使えると聞いていますが・・・




 
そうだね、それは、独学でね、参考書見て。
ちょこっとした広告の原稿作ったりするのは、自分でイラストレーターでちゃちゃちゃっと作っちゃう。
でも、野立ての看板も、今まで自分で原稿作って看板屋さんに渡して作ってもらってたんだけど、
この間、ルーコさんに作ってもらって・・・やっぱりプロの人が作ったものは違うよね、イメージが。

 
ありがとうございます。



 
これからは、イメージを大切にした方がいいし。
広告が素人っぽいと、企業のイメージがダウンしちゃうしね。
そういう部分で、少しでも深みを感じてもらえる企業にならないと、生き残れないよね。

 
入社して社長になるまでの間、当時の社長、つまり今の会長の
指導は、どんな感じでしたか?


 
いや、指導はなんにもなかったよ。




 
見て覚えよ、ということでしょうか?



 
そうだね、うちの社風がそうだから。
指導といえば、修行先の社長から教えられたことがあって・・・
2年半修行したそのお仏壇屋さんは、300年の歴史がある会社で、残念ながらその後倒産しちゃったんだけど、大阪ではすごい老舗で、そのやり方っていうのは、やっぱり独自性があって、勉強することがたくさんあった。
そこの社長に言われたのは、
「永田くん、会社に戻って、多々言いたいことややりたいことはあると思うけど、1年間は、何も動いてはダメだ」ってことだったのね。
帰ってきて、永田やの社風とか仕事の流れとか、確かに感じるところはすごくたくさんあって、これをこういうふうにした方がよくなるのになと思ったけど、でも大阪の社長に言われてたから、黙ってた。
言われたことの本質っていうのは・・・たとえ息子だとしても、所詮2年半勉強したぐらいでとやかくいきなり言うと、まず社員の反感を買うよねってこと。
岡崎は岡崎のやり方があって、歴史もあり社風もあるからそれにとやかく言うのは、まず1年間じっくり見て、それからでも遅くない、という指導なのね。
1年間実際働いてみて、最初は、思うことあった部分も、岡崎、三河はこのやり方が合ってるなと。
大阪とは違う、うちはうちなりのやり方がある、と気づいた。
帰ってきてすぐ、あーだこーだ言わなくてよかったと思ってる。
1年たってそれでもこれは改善した方がいいと思ったことに関しては、徐々に、本部長になってから、改善していった。
最初は営業だったから、この三河の地に慣れようと思って、がむしゃらに営業したんですよ。
最初は知立の店。そのあと西尾。そのあと豊橋店の立ち上げのときに豊橋に配属された。
永田や佛壇店初の東三河出店だったのね。
そのとき永田や佛壇店っていうネームバリューはそれなりにあっても、付き合い先のお寺様は一切なかったので、300のお寺様をひとりで回った。
そういうことをしていきながら、そのときのうちのシェアというのがわかってくるよね。
そのシェアを、もうひとつ上げるには、今永田や佛壇店に何が足りないのかということが見えてくるのね。

 
ここが足りないとか、改善した方がいいと思ったことのうち、実際に改善したのは、どんなことでしたか?


 
まず、会議というものがほとんどなかった。
社長のリーダーシップでトップダウンだった。
あとは、店長の才覚で各店の売上が作られていた。
会議が必ずしもいいものとは言い切れないけれど、まったくないっていうのも、各店間のコミュニケーションが取りにくい。
仕入れも各店まかせ。
それをやってしまうと、統一したチラシが作れない。
商品コンセプトを明確にして、永田やは、こういうコンセプトで売っていくんだ、これをオリジナルで作ったから、各店で力を入れて売っていこうという統一が図れなくなってしまうから、一括で本部仕入れにして、で、各店におろしていく、という仕組みにした。
それを、本部長から専務の時代に徐々に行った。
僕が本部長の頃、兄が専務だったので、一緒に、どういうふうにしていこうかと話し合って、進めていった。

 
なるほど・・・。その他には?



 
変えたことはほんとにいろいろあって、もうあまり覚えてないけど・・・
全部コンピューター化したこと。
それまで、帳面だったからね。
ちょうどWINDOWSの出始めの頃。
トータル的に、パソコン上でのシステム化をした。

 
副社長である弟さんとは、どんなふうですか?



 
副社長とは、席が隣で、毎日コミュニケーションとれるし、問題ないです。
兄とは勤務地も離れてるし、なかなかコミュニケーションがとれないので、それだとどうしても経営方針にズレが生じてきてしまう。
だから兄弟会議をたまに設けて、名古屋で飲んだりしてる。
うちの兄弟は、めちゃめちゃ仲いいよ。
業界でも、永田3兄弟は仲がいいで有名。
3人3様の性格。
兄は、尾張のCOOで、どちらかというと現場でトップに立って、バリバリお仏壇を売っていく。
僕は、今はもうほとんどお仏壇を販売していないんです。
経営の方で、試算表を毎日見ながら、経費をどういうふうにしようかとか、仕入れコストをどう抑えていこうとか、バランスシートを見ながら、いい方向に施策を考えてる。
あとは広告宣伝の担当を任されてるね。
弟は経理。
お金のことは全部任してる。
永田やの大蔵省。
彼の許可がないと、お金が1円も出ない。
すごく心強い。
僕も変な領収書出せないんだよ。

 
すごくいいバランスですね。




そう、3人3様で、それぞれのいいところを伸ばすことができる環境にある。
経営は、トータル的にバランスがよくないといけない。
売るのだけ突出しているとか、部下育てだけ突出しているとかじゃ、経営者としてはNGなのね。
すべてのマネジメント能力が平均的にバランスとれてないと、トータル的に会社を経営していくことができない。

 
バランスのとれたマネジメント能力を培う過程は、やはり、努力ですか?





 
そうだね、勉強はしたよ。
いろんな本読んできた。
会計法とか、P/LやB/Sの読み方だとか。
専務の時代にがむしゃらに本を読んで、経営者の方のいろんな考え方に触れて、吸収して、今の自分の考え方に落ち着いたというか・・・。
高校時代までは、ほんとに勉強ぎらいで勉強しなかったけど、会社に入って必要に迫られて、「これは勉強しなくちゃ」と思ってからは、すーごいがむしゃらに勉強したよ。
どうしたら社員がついてきてくれるのか、認めてくれるのか・・・。
経営者というのは、いろんな質が問われるでしょ?
カリスマ性があるのか、徳があるのか、経営センスがあるのか・・・。
すべて取り揃えていないと、人ってなかなかついてきてくれない。
企業って人でしょ、一番大事なのは。
僕が一番大切にしているのは社員さん。
社員さんに働きやすい環境を、どうやったら作れるのかを考える。
社員さんが満足していないのに、お客様に満足していただけるわけがない。
そのためにはまず自分が魅力ある人間にならなくちゃいけないからね。

 

次回に続きます!!


  


Posted by ルーコです。  at 17:48コメント(0)永田や佛壇店社長 永田浩三さん

2008年04月12日

永田や佛壇店 永田さん 第三回

〜壁を壁と思わない〜



仏壇の素人から見ると、若い世代の人たちに、仏壇の価値を感じてもらうために、仏壇屋さんは今後どうしていくのかなと思いますが、そういったところはいかがでしょうか?


僕は基本的に、お仏壇の価値を、お客様に理解していただくことよりももっと大切なことがあると思ってます。
お仏壇って所詮は箱なんですよ。
ブログにも書いたけど、一番大切なのは、ご先祖様を敬うこころ。
仏様をおまつりしたいというこころ。
そのこころが強くなればなるほど、大切に敬いたいっていう気持ちが強くなるから、それがお仏壇のニーズにかわってくる。
収入によってお仏壇にかけられる金額は、お客様によって様々。
1000万円でもまだ余裕がある方もみえれば、10万円で精一杯気持ちを表したという方もみえる。
お仏壇の金額よりもお客様の、そういった気持ちを大切にしたい。
僕はいつもそう思ってます。
たとえば、30代や20代の人が、そういう気持ちになったとはいっても、そんなに強くはない。
一方、死を意識した人、そういう年齢の人にとっては、ご先祖様を敬ったり、仏様に手を合わせたり・・・それが、自然とお仏壇が欲しいという気持ちに変わってきます。
お客様に「いくらぐらいのお仏壇を買ったらいいんでしょうか?」と聞かれることがあるんだけど、なんて答えるかというと・・・
「ご先祖様や仏様に精一杯やってあげたんだという気持ちがご自身で感じられる金額でいいと思います。
人によって、10万円の場合もあるし、1000万円でも感じない方もみえると思いますので、金額より気持ちを大切にしてください。」とお答えしてる。


そういう中でも、豊田のメモリア店のような、現代の暮らしにとけこみやすい雰囲気の仏壇に関しても、今後取り組んでいかれるんでしょうか?


うん、もちろん、お客様のニーズっていうものがあるから、メモリアのような家具調仏壇、今の住宅事情にマッチした商品は、これから伸びるアイテム。
マンションを買った人で、お仏壇をこれから購入することになった場合、マンションにはおっきなお仏壇は置けないよね。
でもやっぱり置きたい、ご先祖様をおまつりしたいという気持ちのお客様が、これから増えていくと思う。
そういったお客様のニーズに合った商品を、メモリアには用意してある。
だから年々、家具調仏壇の販売本数は、増えてますね。
お仏壇にお精が入るわけじゃない。
仏様にお精が入る。
それをおまつりするお社がお仏壇。
おまつりしたいという気持ちさえあれば、みかん箱でもいいんです。


(ルーコ瀧が口をはさむ)さすがにみかん箱じゃまずいでしょう(笑)

いや、みかん箱でも手を合わせれば、立派な祭壇になるんだよ。(笑)。




あっ、これおいしーい。




(ルーコ瀧)蟹を揚げて、カレー風味にしてるんですよ。

あっ、おいしーい。





(ルーコ瀧)マスターがお勧めのものを作ってくれてます。


ネットショップを始められたのは、永田社長ご本人だとか。
どういうふうにやっていこう、という計画はあったんでしょうか?


いや、とにかく何でもやってみようかなって思って。
反応がなければやめちゃえばいいし。
スクラップアンドビルドです!
でもそれが意外にも反応があったから。
もともとは、ヤフオク(YAHOO!オークション)を始めた理由は、ネット上にうちの名前がたくさんあったらいいなと思って。
ヤフオクで商品を出していると、けっこう検索にヒットする。
永田や仏壇店っていう名前がネット上で表示されるために、商品をガンガン出品していこうと。
それが、今ではけっこう売上が作れるストアになった。
ただ、ヤフオクだけの売上が問題ではなく、「ヤフオクを見たんですけど」と言ってご来店下さるお客様がたくさんいて、それがとても嬉しいですね。
販売業に関しては、今もこれからも、ネットなしでは考えられない。
今の若い人って、ネットで調べてから動くっていう人が多いと思うんだけど、そのときに、永田や佛壇店っていう名前がヒットするように仕掛けていかないと、時代に後れてっちゃう。

では、そろそろ・・・
ルーコ井上社長に聞く・・・・でいきますか?(笑)




いえいえ(笑)。
あのー・・・ここまで話を聞いてきて、ものすごく・・・カッコいいんですが、ちょっとカッコよすぎますので(笑)・・・カッコ悪い話があったら教えていただけますか? 失敗談とか。


そりゃもう、失敗談なんか仕事上ではたくさんあるよね。
でも弱味を見せない、弱音を吐かないのも経営者の仕事なんです!


一大危機はありましたか?壁にぶちあたったとか。




僕ね、ごめん、壁にぶちあたったことないの。





すばらしいですね!さすがですね!




それはね、なんでかっていうと、壁を壁と思ってないからだよ。
ブログのプロフィールにも書いてあるけど、楽天家なの。
楽天家って、壁を壁と思わないんだよ。
横からすり抜けてっちゃう。
だから、いい性格だなと思う。
・・・じゃなきゃね、正直言って経営者やってられないよ。
楽天的じゃないと精神的に壊れちゃう。


そうですねー。
私、今はだいぶ変わってきましたが、来た〜っ!かべーっ!乗り越えるぞーっ!てやってきまして、クタクタになってた時期がありました・・・。


そりゃダメだよ。僕なんかね、ケセラセラの人生なの。





(笑)ケセラセラ!すばらしいですね。






ケセラセラの人生でいいんだけど、経営に関してはケセラセラではいけないんであって、綿密な計画を立てながら、うまくいくように、経営者が操作しなくてはいけない。
だけど、なるようにしかならない。
いっくら自分で努力しても、なんとかしても、潰れてっちゃう会社ってあるでしょ?
経営者に責任はあるんだけど、時代の流れもあるから。
時流はものすごい勢いで流れてるから。ちょっと油断してるとその濁流に飲み込まれることもあるんだよね。


仕事上、大切にしている言葉や信条はありますか?




座右の銘はね、「座右の銘はない」(笑)。
座右の銘というのは、時代によって変わるべきものだと思ってる。
時代はものすごいスピードで流れてるでしょ。
ひとつの座右の銘に縛られていては、絶対乗り後れるときがあると思う。
だから、「座右の銘はない」。

あと、自分がすごく大切にしているのは、ご縁。
お客様とのご縁は一番大切なんだけど、それと同時に、業者さんや社員さんを含め、ご縁を大切にしたいんです。
経営者にとっても一番難しいのは社員教育だと思う。
切り捨てるのは一番簡単な方法。
だけど、その社員さんとご縁があった以上、そのご縁を大切にするっていう考え方で、その人のいいところを引き出してあげるのが経営者の能力。
それができなかったら経営者として失格だと思う。
100のうち、99、ダメなところばかり目に付く人でも、残りの1の良いところを見つけて、その1を伸ばしてあげるのが経営者であって、それができなければダメだと思ってる。
ご縁があって入社していただいた方に関しては、ほんとにそういう部分を伸ばしてあげたいなと思ってる。


採用面接は、永田社長ご本人がされているんですか?




うん。
僕は基本的には来るものは拒まず方針で、よっぽど問題がない限り、採用。
随時採用だから、選ぶ、ということもない。
はい、じゃあ、いいよ、明日からよろしく、みたいな。


どんどん増えませんか?




そんなにどんどんは増えないよ。
若い子に人気のある業種じゃないから。
かと言って、若い子不足ってことじゃなくて・・・。
まあまあ年を重ねた人の方が、お客様に安心していただける商売だからね。
店頭に、僕と、昨日入社した60才近くの社員さんが立っていたとしたら、お客さんは、社員さんの方に、話しかけるからね。
そういう業種ですね。


社員さんを大切にされているから、定着もしますよね。




そうだね。僕は厳しくないしね。
ちゃらんぽらんだしね(笑)。




しかることは?




ぜんぜんないよ。
あっ!でもカルシウム不足になるとやばいかも!




ほめて伸ばす方ですか?




そんなにほめもしないね。





どう接しているんですか?




フレンドリーに。
そして、適材適所。
おかげさまで、うちはいろんな部署があるから、営業で入っても営業が苦手っていう場合もあるから。
うちは物故営業といって、亡くなった方のところへ訪問して営業する仕事があるんだけど、それって、精神的にダメージ受ける場合があるのね。
どうしても敷居をまたげない・・・。
そういう社員さんに、無理にやらせても、お客様のためにならないし、本人のためにもならないから、人事異動して・・・。
人を見て、適材適所で社員さんを配属するのが僕の仕事。




これからの夢はなんでしょうか?




夢は、やっぱり、社員のみなさんに「ほんとに永田やで働けてよかった」って言ってもらえる会社にすること。
今、従業員さんが85名いるけど、全員が全員満足しているわけではないと思う。
社員さんがかかえる不平、不満を経営者が取り除いていくようにしないと、ほんとにお客様に満足していただける接客や納品やアフターサービスはできないと思うのね。
お客様はもちろん大切だけれども、まずは社員さんを大切にしないと、いい仕事は絶対にできない。
経営者って、社員に働け〜働け〜じゃダメだと思うんだよね。
もっとフレンドリーに、一緒にがんばっていこうねーってしていかないと。
そして、経営者は常に素直さと謙虚さを忘れないこと、それが大切だと思ってる。

ところでおいしいね!ここの料理。
さっきの蟹。蟹おいしかった〜。

話戻すけどね、両親からの愛情を感じることがなかったって言ったけど、ほんとに3人の中で一番不出来だったし、できの悪い子ほどかわいいのか知らないけど、修行先も親父が見つけてくれたし、今の自分があるのも、両親が育ててくれたおかげだし、今の自分の立場があるのも、両親が永田や佛壇店をここまで築き上げてくれたからこそだから、それがあって自分は、壁にも当たらず仕事ができていると思う。
なんだかんだ言って本当は両親にとても感謝してるんです。
両親が苦労してきた度合いに比べたら、僕の苦労なんて、“く”の字にもあたらないよ。
毎日ブログみて、コメントして(笑)。


いつもありがとうございます(笑)。
一位おめでとうございます。



ありがとうございます(笑)。
やると決めたからには、絶対1位になろう、と思って。
いろいろ勉強したよ。
三河でブーログが盛り上がって、
全国のネットユーザーに、「三河に遊びに行くなら、じゃ、ブーログ見ようよ」ってブーログで検索する・・・そんなポータルサイトになったら嬉しいもんね。
そんなときに、ランキング上位にある永田や佛壇店という名前が目に入る・・・永田や佛壇店っていう仏壇屋さんがあるんだなって思ってもらえたら、うちにとってこんなに嬉しいことはないからね。



■今回のインタビュー会場
〜Twice(トワイス)〜
住所:豊田市竹生町4-62 1F
TEL:0565-37-8737
営業時間:17:00〜03:00(O.S.02:00) 日曜日17:00〜0:00(O.S.23:00)
定休日:月曜日



  


Posted by ルーコです。  at 12:00コメント(0)永田や佛壇店社長 永田浩三さん

2008年04月24日

FUNE(フューネ)社長三浦さん 前書き

■今回の経営者さんは、FUNE(フューネ)社長三浦直樹さんです。

プロフィール-----------------------------------------------------------

1975年 豊田市生まれ。豊田市小坂で育つ。
 
1991年 豊田南高校入学
 
1995年 河合塾系列マネジメント専門学校入学
 
1997年 平安閣マリエールグループ 葬祭部 入社
 
2000年 実父が経営する株式会社ミウラ葬祭センター(現 株式会社フューネ)入社
 
2005年      株式会社フューネ 代表取締役就任


→三浦直樹の「感動葬儀。」ブログはこちら
→FUNE(フューネ)ホームページはこちら

インタビューの様子はルーコ井上のブログで。


■今回のインタビュー会場は豊田市喜多町にある「もつ二郎」さんで行いました。



【もつ二郎 本店】
住所:〒471-0027 豊田市喜多町2-95
TEL/FAX:0565-34-3413
営業時間:平日・日 17:00〜24:00 金・土 17:00〜26:00


では、ココバナスタートです!!  


Posted by ルーコです。  at 14:45コメント(0)FUNE(フューネ)社長 三浦直樹さん

2008年04月24日

FUNE(フューネ)社長三浦さん 第一回

『あ、とれるじゃん、と思ってから急激に強くなりました。』

インタビュー始まる前からもう緊張してます。




今日はお車ですか?



念のため歩いてきましたけど・・・緊張してるし、最近おなかやばいんで(笑)、ソフトドリンクにします。
飲んでもいいけど、しゃべりすぎちゃうといけないし(笑)



違う話になってっちゃいますよね?(笑)



宴会の連ちゃん中で、1週間ほぼ毎日、外で飲食・宴会です(笑)。というわけで、オレンジジュース(笑)。何を話しましょうか・・・(笑)。


 
生い立ちからお聞きしたいです。



語ると長いよ〜。
とても人見知りする少年でしたねー。今でもしますけど(笑)。


えっ?全然人見知りしているようには見えませんが・・・。



今は、気合で人見知りをカバーしてますけど(笑)。やっぱり人見知りします。B型って人見知りするらしいですね。
どちらかというと、インドアな人でした。女の子じゃないけど、ままごと好きでしたし(笑)。
3人兄弟の一番上で、下ふたりが妹。
女の子の遊びが特に好きだったわけじゃないけど守備範囲は広かったですね。女の子に囲まれて育ったというか・・・女友達のが多かったかな(笑)。
小学校高学年までは、いろんなことがまったくダメでね、泳げない、走れない、投げれない、ドッヂボールは逃げてばっかり。

勉強は得意だったんですか?



勉強もねえ・・・苦手だったんですよ(笑)。




 
--もつの方が、もう煮えてますので、お好みの固さでお召し上がり下さい---

 

通知表なんか、オール1だったこともあるしね、勉強はまったくせずに、遊んでました。
小学校の頃は、どちらかというと、いじめられっこでしたね、僕は。学校に行くのもいやだった時期ありましたしね・・・

今は全然そういう雰囲気ないですね。



今はいじめっこですからね。ちがうか(笑)。
まあ、殻がやぶれたんでしょうね。
恩師と言える人に、小学校5年のときに出会ったんですけどその先生に出会ってから、自分が変わってきたというのもあって・・・。
ソフトボール投げって競技があるじゃないですか、あれ僕、小学校4年のとき、女の子含めてクラスでビリだったんですよ。飛距離5メートル(笑)。

それはある意味すごいですね(笑)。



投げ方を知らなかったんですね。こうやって投げてたんです!(砲丸投げスタイル)(笑)。
1回投げ方覚えると、それなりにいけるんです。
背も高い方だったし。中学高校はバスケやって・・・。バスケ時代から変わりだしましたね。
高校のときは、ハンドボール投げで野球部の人より飛んでましたからね。
52メートル飛ばしたんだけど、測定する線が、50メートルまでしかなかったんです(笑)。
小学校のとき、5メーターだったんだよと言っても誰も信じてくれませんでした(笑)。
ぶきっちょでもあったわけですが、覚えればそれなりにね・・・。覚えるのに人の何倍も時間がかかるってことですね。
結局ね、耐えて耐えてコツを覚えちゃうと、耐える時間が長かった分、覚えてからは成長が早いかな。

その5年生のときに出会ったという先生は、どんな先生だったんですか?



5年生といえばね、完全に劣等生で、勉強もしないし、仕方もわからないし、3年4年は、夏休みにひとりだけ学校に呼び出されて補習。ひとりだけ(笑)。学力が間に合わないってことで。
目立たないおとなしい子だったんですが、5年生のときの先生が包容力があって、1歩前へ出ることを教えてくれました。
例えば、ドッヂボールやってても、井上社長みたいな女の子が、ウワ〜ンッ!て投げたらよけるばっかり(笑)。

ああ、そのとおりで私はウワ〜ンッ!って立ち向かっていく女の子でした(笑)。


正反対ですね(笑)。
やんちゃな女の子にはいつも負けてました。
5年生のときの先生には、ドッヂボールでも、向かっていくことを教えてもらいました。
そうしたら、ある日、ウワ〜ンッて飛んできた球をとれたんですよ。あ、とれるじゃん、と思ってから急激に強くなりましたねえ。


先生に、何か言葉をかけてもらったんでしょうか?



ひとことでは表しにくいんですが、やればできる、というような・・・。
日々見守ってもらっていること、要は愛情を感じて自信をつけることができたんですね。
ああ、やれるんだ、ということを教えてもらったというか・・・。やっと認めてもらった感じですね。
そんな小学生時代でした。

その頃、お父さんお母さんとはどういう毎日でしたか?



ああ、もう、放置プレイね。
どっかの社長さんもインタビューで言ってましたけど(笑)。
商売やってる家はね、どうしてもそうなりますよね。まして僕の家は、葬儀屋を始めたのが僕が生まれた年で・・・。
家族経営で、従業員10人もいなかったから、小学校の頃は、どっこも連れてってもらってないですね。
家族の思い出っていうものは、全くないです。
まあ、井上社長んとこもそうだったと思いますが。
夏休みなど、家族でどっか行こうなんてことになっても、葬儀屋なので、旅行も1泊が限界。
さあ、いくぞーっと豊田インターに乗ったら、当時ポケットベルなんてものがあって、電話するために最初のパーキングエリアに入って、で、引き返すってことが何度となくありました。

がっかりしましたね?



もう、ふて腐れてました。
子どもながらに、なんでうちは・・・なんて思いながらも、連れてってくれなきゃ自分で行くしかない、と思いまして、僕の場合はたまたま、商売やっている家が多い小坂に住んでいて、周りも放置プレイだったので(笑)、一緒に電車にのって、名古屋へ行ったり、自転車こいで、20キロも30キロも走ったり・・・最長で美濃太田(美濃加茂市)まで行きました。

すっごいですね。
私の最長記録は名古屋市緑区出発で蒲郡です。
ところで・・・ 
お父さんは厳しかったですか?

何でも自由にさせてもらいました。
その分、厳しいところもありましたね。
風邪ひいてひどくなると、いつもは母が病院に連れてってくれて、病状を細かく医師に説明してくれたんですけど、あるとき、父に連れてってもらって
「おまえが全部ひとりで言ってこい」と言うんですね。
半泣き状態で診察室に入って・・・。
何でもさせてくれるけど、自分がやらかしたことは、すべて自分で責任とらせるという教育でした。
それがたとえ病気でもね。
初めて免許とって、2週間で大破しちゃったんですけど(笑)、事故処理はすべて自分でやりまして・・・。
そうやって、責任をとる、ということを覚えて今があるのかな、と思います。

お母さんはどうでしたか?



仕事を父と一緒にやってましたんで、かまってやれなかったことを後悔してるみたいです。
でも、それなりに愛情注いで育ててもらったと思ってます。
商売家の子どもでしたから、いい意味で放任主義ですよね。
なんかあってもすべて責任とらされました。
例えば、友達の家に遊びに行って何か壊したときは、お小遣いから天引き。
そういう意味では、社会の厳しさを子どもの頃からわかるようにしてもらったと思います。

それは、後継ぎだからでしょうか?



いえ、えてしてそういう教育だったということで、後継ぎだからではないですね。



ところで、バスケットを中学も高校もされていたということでしたが、バスケットを選んだ理由は何だったんでしょうか?


      例えば野球だと、泥んこになるでしょ。
それがいやだったんですよ(笑)。
バスケットっていちばんきれいでいられるスポーツだから。
体育館でやれるスポーツだなと・・・。
じゃあバレーボールはというと、当たると痛そう。
だけどバスケットなら当たってもそんなに痛くはないだろうと、そんな理由で始めました(笑)。




次回に続きます!!

  


Posted by ルーコです。  at 14:49コメント(0)FUNE(フューネ)社長 三浦直樹さん

2008年05月09日

FUNE(フューネ)社長三浦さん 第二回

『葬儀屋は、ほぼ100%お客様から「ありがとう」と言われる仕事。
そんな仕事、ほかにはない。僕たちにとってはそれが麻薬。』


---もつ鍋が煮え立ってきて・・・店長登場。---


これ、ベースは塩ですか?




(もつ二郎 店長さん)鶏がらです。

おいしそうですね〜。




じゃあ、いただきましょうか。





あのー、うちなんかは昔、かなり貧乏で大変だったんですが、三浦社長のところは、どうでしたか?


井上会長のブログ読んで、それは知ってるんですけど、あそこまでのことはないですね。
でも、給料がない、とか仕事がすごく忙しいということはあって、母方の祖父・祖母の家に預けられた時期もありました。
10代は挫折だらけでしたね、僕は。

立ち直ってきた20代があった・・・?



立ち直ったというか、他の誰も経験したことのないような濃い20代だったと思います。
で、今30代。この30代がいい30代で終われればいいなと思います。
出会いが多いです、30代になってから僕は。
20代の出会いとはまた違って。
10代でまず、高校受験に失敗。
中3のときはすごく勉強したんですけど。
高校のときは自業自得ではあるんですけど、大学受験も失敗。
浪人したときに、遊んじゃって・・・(笑)。
アルバイトもしちゃって。
今思うと、「何で自分が大学行かなきゃならないんだ」という疑問が心のどこかにあって、まあ、結果論だけど、大学いかなかった。

浪人して大学いかなかった・・・。



そう。浪人してさらに、いかなかった(笑)。何やっとったんだって話。
今思えば、個性的でいいんですけど、当時は「おいおいおい〜」って感じですよね(笑)。
それから、忘れもしない、地下鉄サリン事件があった日に僕の人生決まったんです。
親は、二浪は絶対ダメだと。
僕ももう大学は行きたくなかったんで「働く」って親に言ったんです。
そしたら「長い人生、ずっと働かないといけないから、まあ2年くらい遊べ」と言われた。
将来何になるにしても、人間的成長のためには遊ぶ時期は必要だと。
両親とも大学は出ていて、ちゃんと学んだ、じゃなくて、ちゃんと遊んだらしいんですね。
遊んだことがその後の人生に活きてくる、だから遊べと。
で、専門学校に行くことになった。
今さら勉強はしたくない、でも、模試の結果はよかったので、河合塾系の専門学校に推薦入学。
選んでないけど、結果的に、マネジメントコースでよかった。
今役立ってるんですね。
専門学校中はよく遊びましたよー(笑)。
でも、勉強もしました。
専門学校って、入学するとすぐ、就職就職っていうんですよ。


就職するために準備する学校なんですね。



そう。
僕は遊ぶために入ったのに、なんなんだと(笑)。
就職するための予備校じゃないかと。
ついこの間まで、大学に入るための予備校に行ってたのに、また。
学歴のない者は、資格をとるしかない、と言われるんです。
それも一理あるかなと思って勉強したんです。
バイトして、飲んで、彼女もいて・・・。
名古屋で授業受けて、大阪へ行って一晩遊んで始発で帰ってきてそのまままた学校へ、ということが多かったです。
住まいは豊田でした。


-----もつ鍋を本格的に食べだす-----


おいしいですね、これ〜。
すっごい大きいニンニク入ってますね。



もつ鍋にはニンニク入ってるのが常道ですよ。




卒業して、就職活動はしたんですか?



葬儀屋はやる気なかったんです・・・って言ったら怒られるけど、親父には、やる気がないのに継いでほしくないって言われてましたし、やだとは思わなかったけど、自分の人生じゃないですか、だから好きなことやりたいって・・・青臭かったんです。

好きなことというと?



ホントはね・・・この間ブログでバレてしまいましたけど、電車オタクだったんですよ(笑)。
ブログみて電車のおもちゃまでくれた人もいて(笑)。
おちょくってんのかってねえ。
電車が好きだったので、鉄道関係の会社も受けました。
名鉄です。見事に落ちましたけど(笑)。
何社か内定をいただいてたんですけど、中でも行きたかったのは、当時の日本道路公団。
なぜか最終までいきまして、ほぼ内定というところまでいったんですが、ちょっととある事件で、不採用になっちゃったんです。

とある事件とは?



僕長男坊じゃないですか。で、会社はその頃もうそこそこ大きくなっていて、身辺調査でそれがバレちゃったんですね。
近所の人に、この人どうだと聴くんです。
聴かれた中の一人にうちの母がいて、ホントのことしゃべっちゃった。
「長男さんだから、ゆくゆくは会社を?」と聴かれて、「そうです」と言っちゃったんです。
でまあ、ギリギリのところで落ちちゃいまして。

お母さんの一言がなければ人生また変わっていたかもしれませんね。



そうですね。あれ受かってたら僕は一生葬儀屋をやってないと思いますし、今頃サラリーマンですね。



落ちちゃって、その後どうされましたか?



もう、バカバカしくなって就職活動はやめて(笑)、どうしようかと真剣に考えてたときに、父親の人脈を垣間見る機会がいろいろあって、すごいな、と。
サラリーマンだったら絶対にない人脈で、これを継いだら人の役に立てるかもしれない、やるしかないな、と思った。
ころっと変わっちゃたんです。
で、「オレ葬儀屋やるわ」と親父に言いました。
そうしたら、急遽修行先を見つけてきてくれました。

名古屋の葬儀屋さんで、修行はどのくらいされたんですか?




3年間ですね。




3年間で終了ということで、いろいろやらせてもらったんでしょうか?



いろいろというか、がむしゃらに現場でした。
当時はなんでこんなに大変なんだーと思ってましたが、今思えば、現場を徹底的に知らなきゃ経営者にはなれませんから、よかったと思います。

病院へご遺体をお迎えにいくところから?



そう、病院付属の仕事もありましたね。
大きい病院だと1日に何回も亡くなるので、病院にこもりきりという日もありました。
白衣を着て、病室から霊安室への搬送だけ何回も、という仕事もやりました。

もちろん初めての経験なわけで、いたたまれなくていやだとか、そういうことはなかったですか?


確かに、初めは怖かったですよ。
でも、仕事だと割り切っていましたので、いやだとは思いませんでした。
いろんなご遺体を扱っていましたので、それこそ もつなんかは食べられませんでした。
100人いれば、100とおりの死に方があって、人の最期って、その人の性格が出ますね。
お顔でどういう死を迎えたかがわかります。
どういった病気で、ということまで聞かなくてもわかります。
どの部分が悪かったかも、だいたいわかります。
また、殺されてしまった人は、殺されてしまった人の顔をしていますし、自殺の人は、自殺した人の顔をしています。

葬儀が終了するまで、いろんなドラマがあるんでしょうね。



それはもう、日々ドラマです。
お客様の秘密にふれることですので、語れませんが、いろいろあります。
家族が仲いいとか悪いとか、女性のパワーが強いとか、おばあちゃんがすべての実権を握っているとか・・・。
葬儀屋くらいですよね、お客様のご自宅へお伺いして、台所まで入っちゃうのは。

決して、楽しくはない仕事と思いますが・・・



どんな仕事も、楽しくなければやれません。
ただ、葬儀屋の場合は、楽しいというのは不謹慎で、楽しくはありませんが、喜びはある職業です。
喜び、やりがいはあります。
葬儀屋というのは、無資格でできる仕事です。
お医者様や弁護士さんなど、いわゆる“先生”といわれる仕事は、お客様から「ありがとう」とおっしゃっていただけることが多い仕事だと思うのですが、無資格でも葬儀屋さんもそうなんです。
ほぼ100%のお客様に「ありがとう」と言っていただけるんです。
そんな仕事、他にはないと思います。
お客様にそうやって感謝していただけるというのは僕たちにとって一種の麻薬なんです。
そういう喜びを感じちゃった社員は、うちでも長続きします。
そこまでの領域に達するまでに、だいたい3年はかかります。
それまでは、楽しいなんてことはないですね。
人の生き死にを扱う商売ですしね。
どんな人も、命に限りある人である以上、すべてお客様です。
ものすごい大富豪でも、ホームレスでも、お客様なので、そういった人に合わせた対応をしなければなりません。
今日も外国の方の葬儀やってますが、通訳を入れなきゃ進められませんし、いろいろですね。




次回に続きます!!
  


Posted by ルーコです。  at 13:35コメント(0)FUNE(フューネ)社長 三浦直樹さん

2008年05月16日

FUNE(フューネ)社長三浦さん 第三回

『「感動葬儀。」______
葬儀は泣く場所。お客様をおもいきり泣かせてあげたい。
泣くことで、早く立ち直ってほしい。』


うちの会長が、中小企業同友会で講演をしたときに、三浦会長が、質疑応答で手をあげられ、うちの会長が昔、徹底した低価格販売を行ったことに関して「うちは、敢えてそれはやらなかったんです。むしろ、逆です」とおっしゃってました。
今もやはり、値段を上げ、サービスをよくして、価値を上げる方向でやってらっしゃるんでしょうか?


そうですね、正直、うちの葬儀は他に比べて高いかもしれません。
値段だけ比べればですけどね。
ただ、高いんだけど、お客様に支持していただけるのは、他に比べて満足度が決定的に違う、というところまでやってきたからかもしれません。
値段が1割高くても、満足度が2倍なら、お客様に支持していただけます。
ひとことで言ってしまうと、「感動」です。
今、「感動葬儀。」をキャッチコピーフレーズにしていますが、お客様にいかに感動していただくかを徹底的に追及しています。
お客様がどこで感動してくれるか、お客様に聞いてみないと分からないですけどね。

お客様、というのは、弔問客ではなくて、ご親族のことですか?


全てです。
もっと具体的ににいうと、亡くなった方をお世話した病院の先生や看護師の方までも感動させるぐらいのクオリティーがなければだめで、僕は葬儀は泣く場所だと思っていて、お客様をおもいきり泣かせてあげたい。
泣いてほしいというか、泣くことで、早く立ち直ってほしいと思っています。
やはり、最愛の人との別れをどっかで作ってあげないとずーーっと引きずっちゃうんです。
だから、葬儀式、告別式をすることで、一つのふんぎりをつけてほしいし、式中はわんわん泣いてほしいんです。

なるほど、そういう意味で「感動葬儀。」なんですね。



そうです。
うちのお葬式で一番感動していただけたのは、お孫さんに、亡くなったおじいさんやおばあさんに宛てた手紙を読んでいただくという企画です。
おじいちゃん、おばあちゃんで手紙がはじまるんです。
そうすると、みなさん自分に照らし合わせて、ここで思いを共感し合うんですね。
自分に言われているみたいに・・・。
そこが、感動に繋がっていくんだと思うんですね。
僕自身で、一番悲しいのは、赤ちゃんのお葬式ですね。
自分の世代だとだいたい幼稚園児ぐらいまでのお子さんがいらして、どうしても自分と照らし合わせてしまうんですね。
自分と世代や境遇が似てると自分と置き換えてしまってそれを見て悲しいんですね。
ただ、悲しいというのは自然に発生するもので、僕らはそれをどうサポートするかですね。
その中で、悲しいときは泣いて、楽しいときは笑うことが大切です。
僕たちは悲しいは悲しいんですが、その中にも笑いをもたせようとしています。

葬儀に笑いというと、具体的にどういうことをされるんですか?


それぞれのお客様にもよるんですが、たとえば、おじいちゃんのエピソードを事前に聞いておいて、それをタイミングよくお話しすることでわーっと笑いが起きたりします。葬儀の中に笑いも必要だと思います。
悲しいばかりが葬儀ではないんです。

誰がそういう企画を考えるんですか?



そういう教育をしています。葬祭のディレクターですね。今は公的な資格もあるんですが、うちの感動葬儀を作るのは、フューネラルディレクターという職種の人で、どうやってお葬式を組み立てるかを考えるプランナーですね。
今だと、ホテルで行う社葬などは、電通や博報堂などが行うんですね。
広告代理店が葬儀をプランニングするんです。
僕らも社葬をするんですが、うちの場合、プランニングも含め、全部社内でできるんですね。
電通や博報堂に頼むこともできるんですが、ものすごくお金がかかります。
葬儀は企画力が感動を生むんです。
感動を生むためにはお金がかかるんです。
お金を払っていただいて一流のことをするためには一流のことを勉強しないといけない。
例えば、社員に、ホテルで一杯千円のコーヒーを飲んできてもらい、一杯350円のコーヒーと何が違うかを話し合ってみたり・・・。
その違いが分からないとサービスのプロにはなれないんですよ。
僕らは形のないものを売ってるんです。
ですから、心の中にどれだけ葬儀が新鮮な形のまま残っているかがいただけるお金の価値だと思っています。
感動していただかないとやはり覚えておいていただけないので・・・。
人が亡くなったこと自体は忘れないんです。
でも、そのときの風景だとか、天気だとかはうちがどれだけのコンテンツを用意し感動させたかにかかっていると私は考えています。


社員さんにはどのように接していますか?



社員教育は難しいですね。
今うちも人手不足なんですが、それでも本体だけで50名ぐらいいますね。
グループ全体では多いときで200名ぐらいになります。
しかし、その中でも、葬儀一式を任せられるのは7名しかいないんです。
一つの葬儀を行うのに、30名必要なんですが、それを取り仕切る司令塔は1名だけなんです。
その人間がどれだけ感性をもってできるかが、感動葬儀につながると思います。
今年の目標は感・即・動、「気づき」の集団を目指しているんですが、その中でも「気づく」ことがすべてなんです。
そして気づくことの究極が掃除です。
掃除をすることでいろんなことに気づけるんですね。
その他に歩くことで気づくことがあります。
ですので、うちは私を含め全社員ポスティングするようにしてます。
その中で、本当に気づくことが多い。
そういうのがうちでの社員教育の原点かもしれないですね。

社長になられたのは、2年前でしたね。



2005年の10月からなんですが、こんなに早くなるとは全く思ってなかったです。
思ったより優秀だったんでしょうね(笑)。
実は、社長交代は、親子喧嘩から始まったんですよ。
あるときあることを当時の社長に要求したんですよ。
そのとき、「そこまで言うなら・・・社長になってから言え」といわれ、「じゃあなってやるわ」と言い返したところ、「言ったのなら実際にやってみろ」ということで、社長になったんです。


なんについて喧嘩されたんですか?



経営の仕方についてです。
そのときのやり方では、若い人はついてこないと思ったんです。



実際に社長になられてそれはできたんですか?



だいぶできましたね。
例えば給料の査定なんですが、以前は社長と社員という関係だけだったんですけど、社内の組織を作りました。
それにより上下関係や、給料の違いが生まれました。

会長さまは今どんなふうなんですか?



経営に関しては何も言いませんね。
商品に関してはたえずお客様のためにと提案してくれます。
今はもっぱら社員教育担当です。
その点で今後、会長がいなくなり社員教育も私が全てするようになるのは不安があります。ちゃんとフューネのブランドを守れるかどうかが心配です。

これからのことをお聞きしたいのですが・・・夢は?



夢は? と聞かれると困るんですよね。叶えられないことは夢にしたくないんですよ。
夢というより、理想なんですが、誰でもフューネを知っているというようにしたい。

だれでも知っている、その範囲はどう考えていらっしゃいますか?


全国的にです。
全国に「感動葬儀。」を拡げたい。







■今回のインタビュー会場
【もつ二郎 本店】
住所:〒417-0027 豊田市喜多町2-95
TEL/FAX:0565-34-3413
営業時間:平日・日 17:00〜24:00 金・土 17:00〜26:00


  


Posted by ルーコです。  at 12:00コメント(0)FUNE(フューネ)社長 三浦直樹さん

2008年05月29日

MISSLIM(ミスリム)社長前田チコトさん 前書き

■今回の経営者さんは、MISSLIM(ミスリム)社長 前田チコトさんです。

プロフィール---------------------------------------------------------------------------------

1967年 北海道旭川市生まれ(美容師の家に生まれる)。

高校在学中に通信教育で美容師免許取得。

1985年 高校卒業と同時に東京のサロンで美容師として働く。8年修行に行く。

1993年 北海道に帰省し、母親が経営するサロンで働く。

-------この間に、結婚・出産--------

2000年 夫の転勤で豊田に移住。

2004年 ミスリム創業

2008年 3月 名古屋市の藤が丘に2店舗目となる「ミスリムパドマ」オープン

ブログ『MISSLIMのデトックスStyle』 プロフィールより
「子供の時から体が弱く、20年美容師を続けて体を本格的に壊してしまいました。
そんな経験から化学薬品や薬を使わず 人間が本来持っている自然治癒力こそが本当の健康、美しさの源だとたくさんの人に知ってもらうためサロンを開きました。」


デトックスサロンMISSLIM前田チコトのブログはこちら
MISSLIM(ミスリム)ホームページはこちら

インタビューの様子はルーコ井上のブログで。


■今回のインタビュー会場は豊田市月見町にある「カフェチャンプール」さんで行いました。



【多国籍食 カフェチャンプール】
住所:〒471-0033 豊田市月見町1-8-7新豊田ステーションビル1F
TEL:0565-33-3733
営業時間:
ランチタイム 11:30〜16:00(15:30 o.s.)
スウィーツタイム 14:00〜16:00(15:30 o.s.)
ディナータイム 18:00〜00:00(23:30 o.s.)
火曜日定休


では、ココバナスタートです!!  


Posted by ルーコです。  at 10:56コメント(0)MISSLIM(ミスリム)社長 前田チコトさん

2008年05月29日

MISSLIM(ミスリム)社長前田さん 第一回

『美容室の家に生まれたことや、病気がちだったことすべてがよかったなって今では思います。』





創業に至る経緯を聞かせていただけますか?



私は三代続く美容室の三代目として生まれました。なので、自分が経営者になるのは当然だし必然だと思っていました。
高校時代に通信教育で美容の免許はとっていたので、高校卒業と同時に北海道から東京に修行に出され8年間いました。
それから一回実家にもどって、主人と出会って、転勤で豊田に来ました。
働くことが大好きで、小学校3年生くらいからずっと家業の手伝いをして働いてました(笑)。
でも、体が弱くて。
何度も何度も体を壊したり手術したりしているうちに、伝承療法というものに意識が向き始めました。
それが今の仕事につながっているんです。
美容室の家に生まれたことや、病気がちだったことすべてがよかったなって今では思います。
体を悪くしなければ体の大切さを考えなかったでしょうし、美容師という基礎があるからたどり着けたわけですし。



美容師のお仕事は今のお仕事にどう活かされているんですか?



うちは『ヘナ』というものを使って頭皮のケアをしています
付け焼き刃ではなくて20何年という経験がここで活かされています。
うちのサロンはすべて美容師なんですよ。
美容師という職業は今、経皮毒の危険もあるといわれています。
1日に何十人というお客様をお相手させていただいて、パーマ剤やカラー剤などが人の数十倍体に蓄積されるので、美容師は体を悪くする危険性がとても高いのです。
美容師の仕事で手が荒れてリタイヤした人とか、やりたいんだけど体を壊しちゃってっていう人たちが自然と集まって、同じように困っている人たちの役に立てたらいいなって。


そうなんですね。
ご実家の美容室はお姉さんが継がれて、今はそのお子さんが4代目ということですが、継ぐおつもりはあったんですか?



継ぐつもり満々でした!








体はいつごろから弱かったんですか?



生まれたときからずっとです。
体育の授業もほとんど見学でした。
腎臓が悪くて。
ほとんどだるくて寝っぱなしって感じでした。
経皮毒というのは母から子に移るといわれているので私はたくさんもらったのかもしれなしですね。
もちろん大丈夫な人もいるんですけどね。
台湾で足裏マッサージや、アーユルベーダ(インドの伝統的民間療法)を学んで体質改善して、3~4年前に会った人は私だとわからないくらい今は別人のように元気になりました。
ありがたいですね。



勉強は美容師をやりながら?



美容師のときは美容師をばんばんにやって、すっごく仕事のできる人間でした(笑)。
一生懸命がんばるので東京でサロン任されたり。
仕事が好きなんですよ。
ただ、体がついていかなくて。
子供も喘息、アトピーだし。
それもきっかけでまた健康のことを考えました。
さきほど経皮毒のことを言いましたが、皮膚から入ったものっていうのは肝臓を経由しないので90%体に残るんです。






最近は体調もかわって?




はい。
今はアトピーも喘息もないですね。




病気になって働けない時期ってあったんですか?



ないです。妊娠中も母の美容室にいってましたし、27歳くらいに1回北海道に帰って、家を継ごう!って思ってました。
結婚は29歳でしました。
で、旦那さんの転勤で豊田に来ました。



ご主人は北海道の方?




神戸です。
当時はトヨタ自動車の北海道の方で働いてました。




すごい巡り合わせですね。




ほんとですね(笑)





ブログには普通のサラリーマンと書かれていましたが、どんなところが好きなんですか?



すごくやさしいです。
癒されますよ。
あと、なんにも言わずに存分に働かせてくれるところもすきです。
お皿も洗ってくれるし洗濯もしてくれるし。
あまり家にいないし(笑)。



良いな〜!(笑)。




でしょう〜(笑)。






次回に続きます!!
  


Posted by ルーコです。  at 11:45コメント(0)MISSLIM(ミスリム)社長 前田チコトさん

2008年06月05日

MISSLIM(ミスリム)社長前田さん 第二回

『「このために生まれてきたんだ!」って思いましたね。』


いつ豊田に来て、そこからどういう経緯でミスリム創業に至ったんでしょうか?




2000年に豊田に来まして、2004年にミスリムを創業しました。




その間は何をしてらっしゃったんですか?





台湾式足裏マッサージを習いながら働いていました。
台湾にも何度も行きました。
その頃から伝承療法のすばらしさに惚れ込んでいました。
足の裏をさわって、体の不調が改善されることを体感して。
いろいろ勉強してヘナに出会った時、美容師としての私の技術とヘナとが1本の線で繋がったんです。
「このために生まれてきたんだ!」って思いましたね。



それはすばらしいですね!



そう。
で、自分が癒されることってなんだろうって考えたんですが、人と喜びあえることや、人を癒すことなんですね。
最初はひとりでやっていたんですけどだんだん足りなくなって、スタッフとやりだしたらもっと楽しくなって、その子たちを幸せにしたいっていう気持ちになってきて・・・。
そこからですね。



じゃあ、今スタッフさんたちといい関係が築けてるんですね。



そうですね。私みたいにずっと働きたい人っていると思うんですけど、そういう人たちがずっと安心して働ける場所を提供したいと思うようになりました。
若いときだけじゃなくて、50才60才になっても働けるように1つずつお店をもたせてあげたいんです。
女性が年収1000万とれるのは女性人口の1%だとか。
女性は35才定年説とか言われてますけど、私はスタッフに年収1000万を得られる女性になってもらいたいんです。



すばらしい考え方ですね!それが2店舗目の目的でもあるんでしょうか?



そうですね。
1店舗2店舗じゃ年収1000万には難しいので、
そこまでもっていくのが夢です。




じゃあ、またスタッフさんたちのためにこれからも店舗を増やしていくんですね?




ですね。スタッフと、それから自分のために。
それが自己実現です。





------------------------注文した品が届く。------------------





おいしそーですね。
あっ・・・たまねぎ入ってますか? たまねぎ、味が苦手で…




あ、じゃあたまねぎ私食べます!好きなので(笑)。




前世が犬なんですよ。犬はタマネギ食べると死んじゃいますから。




へぇ〜。じゃ、タマネギの兄弟みたいなニンニクとからっきょとかも?




そうそう。





いただきまーす!実はこのシリーズ、ランチでやったのは初めてなんで
す。




そうなんですね。私はいつもスタッフとモーニングミーティングとかランチミーティングとかしてますよ。




夜遅くまでお仕事だからですか?





ですねー。
モーニングミーティングが一番多いです。




食事に関してはやはり気をつけてらっしゃいますか?






そうですね。
野菜をたくさん食べます。
キャベツだと1日1個くらいを鍋にして食べます。
帰って3分とか5分でできますから。



私も体よくしたいなー。
ご自分の体のデトックスをするときは、やっぱり自分でたまってるな〜って感じたときなんですか?



そうですね。
コンスタントにやらなきゃだめですよね。
この間、だいぶためてからやったら大変なことになっちゃいました。
ためてしまうと、持ってる毒を出すときに大変ですよね。
経営者の一番の仕事って自己管理ですね。
スタッフのマネジメントも大切だけど。




------------------モグモグして、少し会話が途切れて…




これおいしいですぅ。
ところで・・・
体調が悪い人の足裏から、何か悪いものを受けたりしちゃうようなことはないんですか?


ないです。
「気」とか、なにか悪いものを受けちゃうって言っている人がいますけど、私はないです。
むしろやればやるほどパワーがもらえます。
昔は調子悪いときに足裏マッサージをして体調が悪くなったとか思ってましたけど、今はすべてプラスに受け取れるようになりました。



今は定期的なデトックスでどこも悪くないという状態なんですね。



そうですね…。
寿命と、“健康で長生き”とはまた違いますよね。
死ぬまで健康、明日死んでもそれまでは健康でいたいです。




そういえば・・・お勧めのお茶、すごく飲むようになりました。




どんどん飲んで~。





体が欲しないと飲めない体質と思ってたんですが、欲しなくても飲もうと思えば飲めますね。





レキサンボトルもってる?
参照:デトックスサロンMISSLIM前田チコトのブログ
   レキサンボトル
   レキサンボトル2



持ってないです。



あれに朝お茶つくって持っていくといいですよ。
ペットボトルとかは体に悪いものがしみ出してるから。
ゴム手袋もいけないんだって。
ゴムからすべて経皮されてるから。





え?!ペットボトルって、冷たい状態で入れてもだめなんですか?



そうです。
レキサンボトルって、抗がん剤を入れてるくらいのスゴイものなんです。
中身が絶対変わらないの。
基準の厳しいヨーロッパで、子どもたちがみんな持ってるんですって。



そうなんですか。
このボトルの存在だけは知ってましたが、買わなくてもペットボトルに入れればいいじゃんって思ってました。


全然違いますから。
世界の料理人が、飛行機でスープを運ぶときに利用されているものなんですよ。気圧がかわっても大丈夫なんです。
130℃なんていう熱湯を入れてもかわらない。



へえ~!ミスリムさんで販売してるんですか?



売ってはいますけど、これで儲けているわけではないです。
安くお譲りしています。
通販で買うともったいないですよ(笑)。
スターバックスでも売ってますね。
身体と環境への配慮です。


知らなかったです。
このボトル持つのはファッションだと思ってて、こだわらなくてもいいと思ってました。
水筒は、何か染み出しますか?


大丈夫ですよ、ステンレスの水筒だったら。
ヨーロッパでは、木や陶器など自然に還るものを使ってますね。





次回に続きます!!
  


Posted by ルーコです。  at 12:00コメント(0)MISSLIM(ミスリム)社長 前田チコトさん

2008年06月12日

MISSLIM(ミスリム)社長前田さん 第三回

『スタッフの幸せなしでは自分の幸せはないです。』

-----------------再びモグモグ----------------


これおいしー!





夜来ると、あらゆる国の料理があるんですよ。





豊田って住みやすいですよね。
東京や神戸もいいですけど・・・。
北海道なんて問題外。
雪かきしないといけないし。
豊田は住みやすい。
車でどこへでも行けるし。
転勤したら転勤したでまたそこがいいって言うんですけど(笑)。



住めば都ですね(笑)。
前田先生の、その前向きな性格はご家庭で培われたんですか?



ううん。
すごく変わりましたよ。
もう、別人。
心配性で、恐がりで、引っ込み思案で、あまのじゃくで、最悪な子でした。
やっぱり体が悪いと前向きになれないし。
この間もこのお話を受けたときに、聞いたとたんにやだって思いました。
写真とられるのもやだし、初めての人と話すのもやだし。
それがほんとの自分なんです。
仕事のときは仕事モードなんですけど、プライベートのときはこもっていたい…。
今は経営者ってことでがんばってるんです。
私が売らなければやっていけないですから。



仕事に対する姿勢をお母さんから受け継いだんですね。



そうですね。
若い方が「疲れたーっ」とか、「仕事 もーやんなっちゃう」とか言うじゃないですか。
考えられないですよね。
自分は仕事が好きで、好きなことしかしたことないから。



働き者の血というか。



前世じゃないですか?
前世がお姫様とかで遊びすぎてて(笑)。
やっぱ返ってくるんですよ。



なるほど・・・。
ところで、ミスリムっていうお店の名前の由来はなんですか?
身(ミ)がスリムって誰かが言ってましたけど?




(笑)ユーミンが好きだったんですよ。
ミスリムっていうタイトルの歌があって。
つけてからもこれで良かったのかなって悩んだりしましたが、最近気に入ってきました。
後付けではいろんな意味をつけましたよ。



ミスリムっていう名前でお店を増やしていくんじゃなくて、ミスリムパドマとかそういう風に子どもを増やしていくんですね。


先にそれありきじゃなくて、出会った物件によりますね。
赤ちゃんだってそうでしょ?
目が大きいから瞳ちゃんとか。





じゃあ、ミスリムグループにしようという考えもないんですね。




ないです。





スタッフの方の店、ということになるわけですね。



女性が幸せでいられるように実力やパワーを考えてるんです。
年商10億とか100億という数字で幸せになれる人もいると思うんですけど、私は主人もいて、子どももいて、それが幸せ。
年収も自分のラインで考えているので「あくなき追求」っていうのは考えてないですね。



その店で得た収入は完全に店長さんに反映されるんですね。



今のところ、みんなに任せてリタイヤしようと思ってます。
でもみんなが社長業をやりたいかっていうとそうじゃないんですよね。
そこのところの責任は私がとってあげようと思って。



すばらしいですね。
最高責任者ですよね。



そうですね。
店を増やすことは自己実現です。
自分を犠牲にして誰かを幸せにしてあげたいっていうことはないのです。
自分がこうなりたいこうやりたいっていうことのためにお店を大きくしたり小さくしたり。



こうやりたい、という自己実現の1つにスタッフを幸せにしてあげたいっていうものがあるんですね。


スタッフの幸せなしでは自分の幸せはないです。
自分ばかりが何億ととって、スタッフたちは安く使うとか・・・幸せはないですよね。




スタッフさんは何名いるんですか?



3人です。
ほんとに困ってます。
美容師をやってて夢破れた方とか主婦の方でいっぱいいると思うので、そういう人たちを表に出してあげられたらなって思ってます。
美容師は、ドライヤーを左手にもって乾かすから、電磁波で左の胸が乳がんになる危険性が高いといわれています。
ドライヤーの電磁波が家電の中で最も高いものの一つらしいです。
1日5分使うのが人体が許容できるマックスらしいです。


それは知りませんでした。
知らない人が多いですよね。
使わないわけにはいかないから何らかの方法でブロックすればいいんですよね。



そうそう!





ところで先日おっしゃってたことで・・・今41才で45才にはリタイヤされるおつもりだそうですが?




事業部を3つもちたいと思っています。
1事業部を少数精鋭で3つ持ってやっとリタイヤかなと思っています。
それが45才まで。
もうひとつはまた違うことをやっていきたいと思っています。
時代って波があるじゃないですか。
そこで1つだと安定しないので3本柱ぐらいでやっていこうと。



今はデトックスという1本の柱がありますよね。
次の柱は?



まだ考えていないです。
全く違うことかもしれないけど、根元は一緒だと思いますよ。
いきなり建設業やったりはしないです(笑)。
全部ルーツを探っていけば、美容室の娘っていうところから発生していて、体に悪いことを解消するためのことをやっているんです。
それが例えば通販に向くかもしれないし。
今はほんとにひとりで、大量生産もオートメーション化もできないし、草の根運動みたい。
マザーテレサが地方に行って講演してる状態なんです。
それが根をはってきたら違うことをやっていこうと…。



企業って2本以上柱があると強いっていいますよね。



そうですね。
働くのはとっても楽しいんですけど、表に出るとかそっちの部分がちょっと苦手なので最終的には社長を雇って自分はオーナーやスポンサー的なものになっていきたいなと。



完全なる引退はありませんね。



そうですね。
また見つけてきますもんね。
海外に転勤したらまたそこで素敵なもの見つけてきちゃいますよね。
楽しくてしょうがないです。


 





■今回のインタビュー会場は豊田市月見町にある「カフェチャンプール」さんで行いました。



【多国籍食 カフェチャンプール】
住所:〒471-0033 豊田市月見町1-8-7新豊田ステーションビル1F
TEL:0565-33-3733
営業時間:
ランチタイム 11:30〜16:00(15:30 o.s.)
スウィーツタイム 14:00〜16:00(15:30 o.s.)
ディナータイム 18:00〜00:00(23:30 o.s.)
火曜日定休
  


Posted by ルーコです。  at 12:00コメント(0)MISSLIM(ミスリム)社長 前田チコトさん

2008年06月26日

ノエビア豊田販売会社社長 高濱耀圭美さん 前書き

■今回の経営者さんは、ノエビア豊田販売会社の高濱耀圭美さんです。

プロフィール-----------------------------------------------------------

1958年 長崎県生まれ。
 
1969年 父親の仕事の関係で豊田に移住。

1976年 高校卒業後入院の為数ヶ月家事手伝い。
     同年、アパレル会社に就職。
 
1978年 ラブラブの結婚生活スタート

1982年 ノエビアの代理店としての販売スタート(創業)。

1989年 (30歳の時)一代理店から、代理店を統括するノエビア豊田販売会社に。


■販売の仕事に抵抗がありながらはじめた仕事だったが、子どもの一言で人を美しくすることの奥の深さに気づかされ、急成長を遂げたノエビア豊田販社。
高濱社長の「純粋」を「豊田に華を咲かせる仕事」にせまる。

→高濱社長のブログはこちら


■今回のインタビュー会場は豊田市陣中町にある夜カフェ「cafe style Faizi(ファイジ)」で行いました。



【cafe style Faizi(ファイジ)】
住所:〒471-0079 豊田市陣中町2-18-12
TEL:0565-35-6004
営業時間:11:30〜15:00(O.S.14:30) 18:00〜01:00(O.S.00:00)
定休日:火曜日、第3水曜日
  


2008年06月26日

ノエビア豊田販売会社社長 高濱耀圭美さん 第一回

『努力って美しいな!』

今日は生い立ちから、現在にいたるまでいろんなことを沢山聞かせて下さい。



えっ?!生い立ち?(笑)
はい、喜んで!(笑)






子供の頃はこんな女の子でしたよ!とか、今後こうしていきたい!などいろいろ・・・。



恥ずかしいなー。
でも分かりました(笑)
生まれからですね。
私は長崎で生まれまして、家族は、両親と兄の4人家族でした。
小さいときはお父さん大好きな子でしたね。
本当にお父さん大好き!って感じで、何でもお父さんに聞いてましたからね。


なんだか・・・すごくイメージ通り・・・といいますか(笑)
わかる気がします。



くどいようですけど本当にパパっこでしたね~。
人見知りだったのもあるんでしょうけど、どこかに出掛ける時なども、ずーっと父の後ろに隠れてばっかりでしたからね(笑)
親戚のおばさんに呼ばれても、隠れてました。
子ども心に、大人になったらお父さんのような人と結婚して、お母さんのような母親になりたいと思ってました。


そうですか。
すてきなお父さんとお母さんだったんですね。
それにしても、お父さんの後ろに隠れてばかりというのは、相当内気というか、シャイなお子さんだったんですね?


そうですね~。
実は今でも人見知りなんですけどね。




え・・・本当ですか?(笑)




本当ですよ~(笑)





とっても明るくて、全然そういうふうに見えないですよ・・・。




周りの人は私が人見知りとは思ってないかも知れないですけどね(笑)
そう思われないのはきっと、いつも笑っているからかな・・・。



確かに・・・いつも笑顔で、顔のつくり自体が笑顔になってますもんね。




でも、たくさんの人にそう思って頂けてるなら笑っていてよかったなって思いますね。




本当に高濱社長はいつも笑顔ですよね。
どうしていつも笑顔でいられるのでしょうか?
なかなかできないことですよね。


小さい時から常に母から言われていたのが、「ニコニコして、いつも頭下げているとバカでも賢く見える!」って(笑)
そういう教えがあって、子供ながらに「笑っとかないといかん!」という気持ちがあったんでしょうね。


小さい時から笑っているから骨格が笑顔になったんですかね?(笑)




もしかしたらそうかも~(笑)
3歳くらいの写真を見てもやっぱり笑ってるのが多いかな・・・。
物心つく前から笑っていたからだと思いますよ(笑)



なるほど~(笑)





・・・・・注文した品が届く・・・・・





カンパーイ!!!!




カンパーイ!!!!







(アイスクリームを見て)甘いものは好きですか?




そうですね・・・どちらかというと辛いもののの方が好きかも。
半分あげましょうか?(笑)




ありがとうございます(笑)
ここのご飯スゴクおいしいですね♪めちゃおいしいです~☆



ん~☆ほんとおいしいね!







・・・・・おいしいご飯に舌鼓。しばし会話が止まります・・・・・


そういえば、さきほどのお話の中で昔はかなりの人見知りだったということでしたが…。



今もですけどね(笑)





まだ信じられませんけど(笑)。
そんな人見知りだった少女は、この業界を知る前に何かやってみたいことはあったんですか?


ん~……歌手になりたいな~って思ったことがあります。
小学校の時のイベントがきっかけでなりたいって思ったんですけどね(笑)
子供の頃って単純ですからね(笑)


でも高濱社長なら、歌手やっていても違和感なさそうですもんね。




とんでもないですよ~(笑)





そんな歌手に憧れていた高濱社長ですが、いつ頃から美容関係に憧れを持つようになったんですか?



中学校の2年生の時でしたね。





ちなみにきっかけは?




中2のときに、当時豊田市駅前にあったデパートの長崎屋の化粧品売り場で綺麗な制服を着た人に呼び止められて、メイクしてもらったんですね。
そのときにメイクしてくれた人がとってもキレイだったんですよ。
その人を見て、「いいなぁ~。私も美容の仕事がしたい!」と思ったのが憧れたきっかけ。




その少女時代の出会いが今に至るんですね?




もちろんそれもきっかけでしたけどね。
やっぱりその後も夢を持ってやってきたからだと思います。




とても重要なことですよね。
でもとことんまで頑張れる人は少ないですよね・・・。
苦難、困難、いろいろあるのが仕事で・・・。


嫌になった時もあったかも知れないですけどね。
人間誰だって、忙しい毎日だったり、思った通りにならなかったりすることがあると思うんですよ。
でも、そんなときに思うのは、「途中で嫌になって諦めてしまうのは、きっと夢や目標を無くしてしまうからだ」って。
・・・富士山登ったことありますか?


はい、あります。




富士山って遠くから眺めるとすごくきれいですよね。
でもいざ山登りを始めてみると、殺風景というか、岩や石でゴツゴツしていて、けっして、きれいではないんですよね。



そうですね、確かに。




なんで登らないと行けないのかな?なんて思ってしまうほどで・・・そう思いながら登って、峠を越えて・・・で、今度は山を降りて、そして遠くから富士山を見て見ると、「やっぱりキレイだな~」って思うんですね。
上っている途中は、つらく厳しいけど、登ると達成感があるし、降りて遠くから眺めると、ほんとうにきれい。
これって、夢や目標を達成していく仕事のようですよね。
夢や目標を達成するには辛く厳しい現実もあるけれど、努力することは美しいし、夢や目標を持ち続けることはすばらしいって思うんです。
きれいな富士山を見ていると、そうしみじみ思いますね。


なるほど。




そう思ってノエビアで頑張ってきて、今振り返ってみても、「努力してきて良かった。努力って美しいな!」って思うんです。
見た目じゃなくてね。
そういう話をすると「キレイごとじゃないか?」って思われがちだけど、キレイごとで済ませたくはないですね。


そうですね。




私、「キレイ」って言葉が好きなんです。
好きなことであり、夢であることに対して、いつまでも努力して行きたいなって思いますね。
それが今の気持ちじゃないかな?
これからもずっとそういう気持ちでやっていきたいですね。


すごく大事なことですね。








次回に続きます!!
  


2008年07月11日

ノエビア豊田販売会社社長 高濱耀圭美さん 第二回

「お母さんは化粧品の先生だもんね~」って・・・
その一言で、変わりました。


創業のきっかけを教えていただけますか?





車の免許をとろうと思ったのがきっかけなんです。
免許をとるためには、働いて収入を得なきゃと思って。
主人には「お前はどんくさいから車の運転は危ない」って結婚当初から言われていて、確かにそうだなと(笑)。
それで、免許なしで、公共の交通機関やタクシーを使って生活してたんですね。
でも、子どもが生まれてから、困っちゃった。
子どもが体が弱くて、たびたび熱を出して・・・。
病院にいかなければならないときに、自分には車の免許がないので、熱がある子を抱いてバスに揺られたり、雨の中タクシーを待たなきゃいけない。
一方で、他のお母さんたちは、さ~っと車で出発する・・・。
なんだか、自分の子が、私の子であることで損をしている感じがして、子どものために車の免許をとろうと決心したんです。
主人には反対されていたので、自分の力でなんとか免許とらなきゃと思ったときに、ノエビア化粧品のことを思い出したんです。
自分の化粧品をお得に買うだけのために代理店になってたんですが、確か・・・販売してお仕事にもできるんだったっけなと思い出して・・・。
子どものために免許をとる、そのために、販売をやってみようと思い、始めたのが創業でした。




そうだったんですか。
きっかけは車の免許で、選んだ職業は、以前からの憧れだった美容関係なんですね。
今に至ったことを思えば、順調に売れていったんですよね?


車の免許をとる、という明確な目標があったし、子どものために!と、がんばれたので、免許をとる分はすぐできました。
それで・・・免許とれたし、子育てに専念したいし、仕事するのはもういいやと思ってたんです。
ところが、そういう気持ちとは逆に、ご注文を下さるお客様がいて、断ることもできず、販売しました。
そのとき出た利益が800円。
プロ意識もない状態で、800円得たことが申し訳なくて、申し訳なくて、悪いことをしているみたいな気持ち。
バチがあたる気がして、いてもたってもいられなくて、どうしよう、どうしよう、と悩みましたね。


いい人すぎますね(笑)。





いい人というより、仕事向きでない人間だったんでしょうね。
悩んで、家に帰って主人に相談したくらいです。
「それくらいじゃバチは当たらんだろ」と言われましたね(笑)。




普通はそう思いますよ(笑)。





でも、私はダメだったんですね。
いてもたってもいられなくて、「そうだ、お客様にマッサージをしてあげて、800円分お返しをしよう」、と思い立ったんです。
それがエステの始まりでしたね。
お客様が、自分のひざ枕でスヤスヤ気持ちよさそうに眠っているお顔を見てると嬉しくって・・・。
ずっとマッサージのサービスを続けました。


そうだったんですね。
エステをするということは、ノエビアという会社が、代理店のルールとして決めているんだと思っていました。
そういう意味があったんですね。
お客さまに喜ばれるはずですよね。
心でやってるわけですから。
罪悪感は、それでもう感じなくなって・・・?


ん~、まだ。
プロ意識がないのにやってるってことがお客様に申し訳ないし、仕事はやめようと思ってるのに、お客様がお友達を連れてきて下さるんですよね・・・それもまた申し訳ないし・・・やっぱり、売って利益を得るということに対して罪悪感でいっぱいでしたねー。




ああ・・・わかる気がします。
お金をいただくことが申し訳ないっていう感覚。
でも、だから余計に気に入られてお客様が増えたんじゃないでしょうか。
それでその後も罪悪感を持ち続けたまま仕事されてたんですか?


そうですね。
やればやるほど、お客様に化粧品を買ってもらうことイコール利益が出るってことが申し訳なくて、そういう気持ちが拭い去れないんです。
かといって、買ってもらえないと認めてもらってない感じがして寂しいし、なぜ自分はこんなに一生懸命やっているのか、意味がわからなくなっちゃって。
毎日毎日ただただ一生懸命だったんですけどね。
意味がわからないので仕事が楽しくなかったですね。


今はもう、すごく楽しそうですよね。
いつも笑顔で。
どうやって乗り越えたんですか?



そのきっかけも、子どもでした。
まだ ちっちゃかった娘が言ったひとことで考え方がものすごく変わりました。
娘を自分の仕事場に連れてきてたので、母親の仕事に関して、娘はいつも側で感じてたんでしょうね。
ある日、本当に嬉しそうに、にっこ~っと笑って「お母さんは化粧品の先生だもんね~」って言ったんです。
その一言で、がらっと前向きになれたんです。
自分は、女性がきれいになること・きれいになる方法をお教えする先生なんだ、すばらしいことなんだと思えるようになったんです。
それからは、仕事が楽しくなりましたよー。
一代理店からスタートしたんですが、そのことを境に急激に売上が伸び始めて、その後4年で販売会社になりました。
そのとき30歳。
今50歳。
あれから20年です。


何のために、誰のためにっていう使命がはっきりすると、人間も組織も強いですよね。







次回に続きます!!
  


2008年07月18日

ノエビア豊田販売会社社長 高濱耀圭美さん 第三回

『‘女性をきれいにする’という仕事は・・・・社会を元気にする仕事』

ノエビア豊田販社さんの朝礼のすごさは、私は生で見て知っていますが、ブーログの中でも、いろんな方が話題にされてますよね。
その、すごい朝礼になる前のノエビアさんを知らないのですが、朝礼が変わったことで、会社に変化はありますか?


倫理法人会の活力朝礼を導入してから、出社してからの仕事への切り替えが非常に明確になりましたね。
それだけでもモチベーションが上がるんですが、それだけではなくて、活力朝礼はチームワークの表現なので、人に沿うということの大切さを、毎朝気づかされるんですね。
活力朝礼で、チームワークを体で感じ取っています。
言葉で具体的に、というと難しいけど、みんなで、人間として変化している感じ。
それが、活力朝礼のすばらしいところですね。




すごいですね、朝礼によって人間として変化するっていうのは。
ノエビア豊田販社さんの朝礼がいかにすごいかの表れですね。
愛知県1位ですもんね。※2008年 愛知県朝礼コンクールで、グランプリ受賞。


グランプリとわかったときはほんっとうに感動しました。
指導して下さった方と応援して下さったみなさんのおかげですよー。
そうそう、その後うちの朝礼、さらに進化したんですよ。


えっ!?さらに、ですか!




例えば、朝礼の中の1分間スピーチは、‘日本一の1分間スピーチ’と呼んで、
競って発表するようにしたんです。
そしたら、発言が少し苦手だった事務スタッフが1番をとって、プラス!プラス!プラス志向でがんばるっていう内容のすばらしい発表をしたんです。
その姿をみて、すごく感動して嬉しかったです。
それから、ミーティングも進化しましたよー。




‘日本一の1分間スピーチ’をするくらいだから、ミーティングもすごく活発なんでしょうねー。



みんなで‘日本一のミーティング’といって、張り切ってやってます。
連絡事項を競って発表するんです。



わ~。
やる気が出そうですねー!ミーティングも見学させていただきたいです。




うんうん。
日本一の朝礼やミーティングを通して、もっともっとみなが活発に発言する会社にしていきたいですね。
私たちは、女性をきれいにすることが使命、女性を元気にすることが使命なので、特に明るく活発に仕事に取り組む必要がありますよね。


なるほど・・・。
少し話はそれますが、女性はきれいになると元気になると言いますか、元気だからきれいなのか・・・どちらも言えることだと思うんですが、まずは、きれいになると元気になるというのは感じます。
ノエビアのみなさん、みーんなきれいで元気ですよね。


女性がきれいになるということは、例えば・・・お母さんがきれいになると、まずお母さん自身イキイキする・・・お母さんがイキイキしている家庭は明るいですよね。
子どもも、お母さんがきれいだと嬉しいし、お父さんも奥さんがきれいだと嬉しいですよね。
だから、女性がきれいになるということは、単にその人ひとりがきれいになるっていうことだけじゃないすばらしい効力があるんですね。




なるほど・・・。
ほんとにそうですね。
周りまで明るくなりますね。




養老施設で、おばあちゃんたちのメイクのボランティアをしたことがあるんですよ。
最初はみなさん躊躇していやがっていたんですけど、ひとりのおばあちゃんがメイクされてきれいになって、その笑顔を見たとたん、他のおばあちゃんたちもみんなメイクを希望されて、みんなメイクすることになって、次々とおばあちゃんたちをきれいにすることができたんです。
おばあちゃん同士お互いにきれいなったことをとっても喜んで下さって、それまでになかった笑顔・歓声があがったんです。
嬉しかったなー、ほんとに。
おばあちゃんたちが、みんな元気になって。
しかもそれだけではなくて、きれいになったおばあちゃんを見たおじいちゃんたちも喜んで、元気になったんですよ。


それは嬉しいですね!




うん、ほんとに。
それでそのとき思ったのは、私たちが行っている‘女性をきれいにする’っていう仕事は、女性も男性も元気にする、社会を元気にする仕事なんだなーっていうこと。




確かにそのとおりですね。社会を元気にする仕事ですね。




それから、認知症のおばあちゃんのメイクをしたこともあるんですけど、ちょっと油断するとパフを食べちゃったり・・・あと、メイクの前に、目やにや口の周りの汚れを拭く必要があったし、バタバタのメイクで・・・でも、メイクし終わって鏡でお見せしたら・・・途端に・・・こう、スーッと気取られて・・・シャキッとして・・・それを見たとき、感動で涙があふれてきて、そのあとのおばあちゃんたちには泣きながらメイクしたんです。
ああ、女性ってすばらしいな、女性をきれいにすること・・・女性がきれいになることって、すばらしいな、と心底思いました。
私たちは、豊田市の女性をきれいにすることが仕事で、それは豊田市に華を咲かせることだと思うんです。
おばあちゃんのメイク以来、絶対に枯らさない、と誓いました。
豊田市の女性を、みーんなきれいにして、豊田市に、このすばらしい仕事をする仲間を増やして、豊田市に貢献することが私たちの使命だと思ってます。


すばらしいことですね!豊田市には日々確実に華が増えてますよね。




今回で、ノエビア豊田販売会社高濱耀圭美さんは終了です。


■今回のインタビュー会場は「cafe style Faizi(ファイジ)」さんで行いました。


【cafe style Faizi(ファイジ)】
住所:〒471-0079 豊田市陣中町2-18-12
TEL:0565-35-6004
営業時間:11:30〜15:00(O.S.14:30) 18:00〜01:00(O.S.00:00)
定休日:火曜日、第3水曜日